痕跡と断片と脳勃起と知ったかぶり
『月姫』は挫折した。んで『痕』を始めた。
http://www.eonet.ne.jp/~you-m/games/ka/kizuatore_sol.html
ここを見ながらプレイしている。無論、この手のやり方は邪道である。エロゲーは、小説というよりかは、ゲームである。プレイ感というものを重視しなければならない。バットエンドを繰り返しながら、どうにかしてトゥルーエンドまで持って行くというメンドクサい作業にこそ、何かがある。
エロゲには大量のラストシーンが用意されている。ラストにこそ主題が宿るという見方をすれば、エロゲには大量の主題が宿っているということになる。かくして人は、主題が多数である=本当の主題は存在しない(どれだかわからない)ことをもって、主題を語らずに、テキストそのものや、それを成り立たせる環境、プレイの快楽について語る。
しかし、トゥルーエンドというものは、存在している。ゲームをプレイする以上、私はこれ目指してしまう。グッドエンドを全て味わうことによって、「作者が言いたいこと」に近づこうとしている。これは悪いことだろうか?
同時にバットエンドにこそ、すばらしい物語が描かれている場合もある。ゲームではないが、『ひぐらし』なんぞはそうだろう。こっちこそが、主題ではないか。主題となって欲しいという場合が、ある。主題から人は逃れられるか?
ややこしいので中止。
『水無月徹も「萌え指向」になってきたのでしょうかねぇ…。』
http://www.eonet.ne.jp/~you-m/games/ka/kizuatore_sol.html
萌えブーム下の現代における、いわゆる古典的名作の『痕』が、「萌え」と呼ばれることに不快感を示す人間は確実に、おそらくは多数いる。
俺は、やはり『痕』は「萌え」じゃねえか、と思うのだが。同時に、『痕』と同じようなガジェットを含む冬目景の諸作を「萌え」などと呼ばれると、困ったことに苛立ってくる。
萌え―ポストモダンというような図式が作られるとき、そこに想定されるべき「モダン」とは何か?
「モダン」=近代文学と想定して、「萌え」を語ることができる人間は、おそらくはいない。
「萌え」を、理解できる人間。そこに等身大で対峙できる人間の想定するモダンは、ガンダムであり、押井守であり、エヴァゲリオンであり、桜玉吉や吾妻ひでおの私小説的マンガであり、福本伸行であり、『宮本から君へ』であり、いましろたかしであり、根本敬であり、少女マンガであり、宝島30や小林よしのり、アフタヌーンやビーム、冬目景、ブギーポップ、葉鍵であると思う。
これの、次に来るものが、「萌え―ポストモダン」であると思える。
前者の「モダン」はオタクによって享受された。だから、萌え=オタク、ポストモダン(いわゆる近代文学というような形で提示される近代の次に来るもの)=オタクと呼ばれるのには、どうも違和感があるのでは?と最近改めて思った。というか思い出した。
ついでに思い出した。
「ポストモダン」というものは決して幸福なものではない。
「ポストモダン」は血塗られているといったほうがいいかも知れない。
萌えるキャラを見て、「そんな女いねえよ。」と言ってはいけない。そのキャラに萌えること。萌えを萌えとして享受すること。それが肝心。
ヤンデレを「無能な主人公を好きになる女は病んでいるんだよ」と解釈してはいけない。ヤンデレの狂気に萌えること。ヤンデレをヤンデレとして味わうこと。それが大事。
この思考を加速させる。
土地がある。それに狂気的な値段が付いている。狂気的な値段を、狂気的な値段として、楽しむこと。そんなものは狂気だ!と言わずに受け入れること。
んでバブルが崩壊した。あの時最高のリアルが向こうから会いに来た(『アンインストール』)
出現した大量の不良債権は、人から定収入を奪い、オタクにエロゲ全分岐プレイをさせる時間を与えた。で、現在は開始される。