未整理雑感2

何故、オタクに辛くあたる事が自分自身がオタクである事の表明に繋がる事があるのか。インターネットの中にごまんとあるオタク批判のサイトを見て回ればあなたが何か気づくかもしれない。また、心理学を勉強した事のある人の中にもヒントを見いだす人もいる事だろう。全てのアンチオタクがオタクであるとは言えないが、中にはかなりえげつなくオタク臭さを漂わせたアンチオタクサイトが存在する事は覚えておいたほうがいい。むろんどれだけ閲覧しても考えても気づかない人もいるだろうが。

http://www.nextftp.com/140014daiquiri/html_side/hpfiles/otaken/syogen.htm

そういう時代があったのだ。よく覚えておこう。昔の「テキストサイト」なんぞは「自虐としてのオタクorオタゆえのオタクバッシング」+「ディレッタンティズム」ばかりで、これの代替が「はてな」界隈の「オタク褒め」+「学術」だったと私は認識している。話は少し逸れるが、東浩紀が吼える以前、「ポストモダン」も「オタク」も後ろに(笑)を付さなければならない時代があったと思う。

この手の歴史を人は忘却しているか、意図的に流しているか、単に知らないでいる。または「過去の人間は無知蒙昧だった」と侮蔑している。

数年前の出来事でさえ人はすぐに忘れる。または数年前の事実でさえも、すぐに藪の中に行ってしまう。例えば遠藤浩輝が期待の新人だったことを一体誰が覚えている?覚えている人間は山ほどいるが、そのうちの何人がこのことを意識の上に登らせ続けているだろうか?

数年前の事柄だって、こんな様である。そして私の史観に異論がある人もいるだろうが、数年前の事柄だって議論は容易に巻き起こるのだ。

ならば60年以上前の沖縄戦に関して、人は沈黙するか、徹底的に研究するか?の二つしか本来はありえない。適当に物が言える人間は、傲慢であり、知性を過信している点においてアホである。

もし自分に「歴史」感覚というものがあるなら、それはブックオフにしか存在しない。

http://d.hatena.ne.jp/yasudayasuhiro/about