シンエヴァンゲリオン感想。生きるンゲリオン、死ぬンゲリオン。生きる編(ネタバレあり)

『シンエヴァンゲリオン劇場版』を観て、発狂したものが少ないのは、発狂するような人間は25年の間にみんな死んでしまったからではないか。

ああ、生き残ってしまったな、と思った。
だってエヴァンゲリオン放送開始って1995年だ。
25年以上前に放送されたアニメの最新作を観ているということは、俺もあなたも生き残ってしまったのだ。
ここを読んでいるあなたは、死ななかった。
ハルマゲドンはこなかったし、核戦争も起こらなかった。
震災も、テロも、コロナも、大不況も起きた。
おれもあなたも踏みにじられた。
大事件に、巻き込まれた人は大勢いるが、おれもあなたも死にはしなかった。
なによりも自殺をしなかった。
細い体のどこかに力をこめて、まだ生きている。
TV版のエヴァンゲリオンや旧劇場版のエヴァンゲリオンのテーマは、死だ。
ざっくりいえば、自死だ。自殺だ。
自閉していく世界も、自室の扉が開かないことも、まっているのは死だ。
でも、おれもあなたもできなかった。
しなかった。
まだ生きている者への祝福として、25年前にチルドレンだった、おれとあなたに向けて、シンエヴァンゲリオンは描かれている。

『シンエヴァンゲリオン劇場版』において(初めて)庵野は、小さな他者を描いたと思う。
隣人であり、同僚であり、おばちゃんやおじちゃんや、生きるものを描いた。
あの巨大な災害の中で、あとで、だれが後始末をして、どのように生きていたかを描いた。
この描写をバカにすることはできる。
描かれた疑似的な農村はフェイクだろう。
庵野がやるべきことではないし、そんなものは宮崎や高畑がやっている。
むしろ、共同体的なものを見向きもしなかったことや、踏みにじられた民衆にフォーカスを当てなかったことこそが、庵野の魅力だったはずだ。
でも、コミュ症の綾波が、「これは、〇〇のおまじない」と「あいさつ」を教えられていく姿は、笑えない。
共同体に溶け込む姿が、笑えない。
だって、それは、生き延びてしまった、おれとあなたが、学んでしまったことだからだ。
「あいさつ」を学び、ここに、なんとか溶け込んだ。
だから、生き延びることができたのだ。
生き残ってしまったのだ。
綾波綾波でなくなっていくことを真に批判できるものは、もう死んでいる。
南極や赤い海、砂漠。
一人、聖書を読む者が世界の破滅を望むのが旧作のエヴァンゲリオンなら、「縁」に溶け込み、汚れ、米を作り、多神教のここの世界を描いたのが『シンエヴァンゲリオン劇場版』だろう。
ここの世界には、生きてしまった俺とあなたとがいる。

ミサトがよかった。
ミサトは、やっと自分の責任に気づいた。
14歳は子供だ。
その子供を、自分の特攻兵器にしたり、疑似家族にしてみたり、自己を投影するのは、気分次第で振り回しすぎだとおもう。
ミサトはずっと自分しかみえてなかった。
そのミサトは、自分こそが世界を滅ぼしたのだと気づいた。
気付いたミサトは、世界の破滅を自分のものとして、捉えることができた。
だから、責任者として部下をまず逃げさせることができた。
そして、大人びるためにアップした髪を下した。
髪を下した彼女は、「美少女」戦士的なものから逃げられない29歳のころの「思春期」的な女子ではなく、自分が自分でしかありえないことを悟った大人の姿だ。
うまくいえないけど、やっと俺はミサトさんに自己を投影することができるようになったんだ。
25年かかって。

シンジとアスカがくっつかなかったのが一番良かった。
父を殺し、母と出会う。
あとは「姫」と呼ばれるアスカを救出すれば、すべてのチルドレンが満足するだろう。
でもくっつかなかった。
奇跡は起こらなかった。
リセットボタンをここで押したくなる。
トゥルーエンドは別の分岐にあったのではないか。
でもトゥルーエンドなんかというものが、本当にあるのだろうか。
あなたの人生はトゥルーエンドなんだろうか。
あなたが今呼吸をしているところは、本当にあなたがいるべき場所なのだろうか
ただ、ありえた可能性が頭の中を何回もリフレインして、ただあなたが立っている現実だけがごろんと寝転がっている。
可能性を思うのは、人生が一回性のものだからではないか
シンジはアスカとのありえた未来を、ふと空想するだろう
そしてその空想が実現しえないことも
その空想こそが生きていることではないか

革命はもう起こらないと思う。
シンゴジラが駄作なのは、あれが革命の話だからだと思う。
世界が変わり、人々がシャンとすれば世の中は良くなる。
でも、そんなものは特にやってこなかった
シンジはアスカや父のことをリフレインしながら、それなりにやっていくだろう
たぶん私も歯を食いしばりながらやっていくとおもう
それは25年の間に死んでいった者に対するほんの小さな義務感と対抗心みたいなものだ