ポストモダンになりたいな。ポストモダンにゃ夢がある。

http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20070514#p1

「いかがわしさ」こそ文学の命である。

一般的にいえば、ライトノベルはいかがわしい。だが西尾や佐藤がいかがわしいか?と言われれば、あまりそのように思えない。自分にとって彼等は、わかりきったもの(オタク)を、わかっていないもの(純文学)に繋げてくれた作家である。個人的なものを社会的なものに接続してみせた彼らは、作品は別として、セカイ系なぞではない。むしろ社会の方を向きながらも、どんどん社会から切り離されていく彼らと同世代のネット右翼のほうが「いかがわしい」。そして彼らの近くにいる山崎行太郎も「いかがわしい」。

なぜ自分が東浩紀という評論家を読もうと思ったのかといえば、彼が柄谷行人浅田彰に認められた存在だったからだ。かつて彼らの評価をえた俊英は「いかがわしい」ものじゃないだろう。

エヴァ』やら葉鍵系には書き割りの文学の匂いがする。その匂いを「萌え」で回避し、書き割りの文学を退けた人間は、純文学がわかっていると思う。書き割りの文学を否定することこそが、純文学ではないか。だったらこのように見出される「萌え」は全く「いかがわしい」もんじゃない。葉鍵に深遠を、「碇シンジは私だ」と言ってしまった奴のほうが「いかがわしい」。