社会と承認と(ついったーから転載)

「マンガに対する愛」とか「マンガの為のマンガ」とか「マンガとは何か」とかナイーヴな顔をして言っている奴は、『マンガ』の部分を『文学』に変えてみると良い。如何にそんな物言いが恥ずかしいものかよくわかるだろう。
「マンガ」と「文学」の社会的立場が違う?君はマンガの社会的還元を嫌っているんじゃなかったっけ? ああそれと、マンガ関係の学問が出来るのは大抵社会学部系統じゃなかったっけ?んで、そこのゼミで、「意味論に還元されない、マンガ表現論」とか言っていたら何か変だと思わんかね。


話はぶっ飛ぶが、「文学」の社会的立場だって怪しいといえば怪しい。だって賢い(自称含む)奴らが有益なことじゃなくて無益なことをやってるわけだ。「文学」の人はこうかんがえる。「同期は銀行員や官僚になっている。俺は有益なことができるはずなのに、なんで無益なことばかり」と。無闇にコンプレックスを抱く。
福沢諭吉は「文学?馬鹿じゃね?」と思っていたらしい。ただし、これは噂。でも噂が広まるってことは、文学屋が社会的なもんに強いコンプレックスを持っていたからだろう。
劣等感を抱く人間のとりがちな行動は2つ。逃げることと、過剰に適応すること。
例えば平野謙は左翼だったわけだが、戦中には東條首相のスピーチ文を書いていたりする。イデオロギー的には節操がないわけだが、この二つには共通項がある。つまりは社会への過剰な参加意識だ。
所謂、「無頼派」は戦後の進歩主義との対比で見るとよいと愚考する。「第二の開国」といわれた中で、ヒロポンを打ち、女と心中したりするのはカッコイイ。だが逃避といえば逃避だろう。彼らが長生きすれば、彼らが望んでいた世界を目の当たりにできたのに。と思わなくもない。
平野謙も太宰も、すげえことは確か。でも、その後列にいる人間は目も当てられない。例は出さない。出す必要も無い。
んじゃ、どうするべきか?知らん。ここらへんは、問題がデカくて手に負えん。「社会化された私」とかと絡めればいいのだろうが、それは文学部の仕事だろう。私は社会学部系のゼミ出身なのでよくわかりません(え!)