ケータイ(笑)小説(笑)

無茶苦茶大雑把に、しかも知ったかぶりをかましてみよう。はじめに純文学っぽい純文学があったと。脳内か実在するものかは知らんが。んで、これを批判するものとして純文学っぽくない純文学が生まれた。70年後半ごろからの文学とか。村上龍村上春樹高橋源一郎などなど。んで、これに対する反動とか継承とかがあった(J文学?)。ここでちょっと考えるに、文学が、純文学っぽさの否定を志向しているなら、そのことを純文学に見出さなくても、大衆文学にそれを見てしまえばいいのではないか?と。んで、人はミステリーやらSFに向かう。んでさらに純文学っぽくなさを求めてラノベに向かう。佐藤友哉の初期小説を虫の目ふうに眺めると、それはとても純文学っぽい。だが純文学が純文学っぽくなくなってしまった世界から考えると、過剰に純文学っぽいそれは、純文学っぽくなく、逆に純文学を体現している、と。

んで、純文学っぽくなさを追い求める人は最終的に、ケータイ小説に出会ってしまう。グーテンベルクの銀河系が云々していた人は、そのケータイさに注目せねばならない。村上春樹に「新口語」を見出した人は、その口語性に出会わなければならない。「こんなものは文学ではない」「ラノベはバカ」「ミステリーは俗っぽい」という物言いを嘲笑していた彼は、どうしてもケータイ小説を褒めねばならない。んで慌てふためく。

しかしまあ、スルーしても別にいいんじゃないか。本格的な理論屋以外は、嫌なもんは嫌でいいじゃないか。生理的なもんやら、言葉にし難い美的なものこそが、やっぱり全てで、それに従ったっていいんじゃない?ラノベやらミステリーを理論的に持ち上げてきた人は、ケータイ小説を前に、自身の物言いの責任を問われてるかも知れんけど、別に作品の良し悪しとか嗜好は理論じゃないだろうし、無責任とか物言いの矛盾を前に慌てふためく姿のほうが、私にはみっともないと思うけど。


Q.ところで純文学ってなんだ?
A.知らん。