セカイを仰ぐ(90年代サブカル私見断片)2

http://d.hatena.ne.jp/i04/20071205/p1
ここで#104さんが仰っていることは、夏の例のオフ会の総まとめだと思う。つまりは90年代(後半)の物言いが、00年代に入っていかに変化し、またポスト00年代を考える上で、その物言いがどのように復讐を始めるか?という話だと思う。大げさだが。

90年代のハイエンド系は「萌え」に変わった。

90年代の反ポストモダニズム系の物言い(おそらく宮台真司もここに含めてもいいハズだ。ところで私は北極ラジオを聴いて「まったり革命」という言葉を思い出した。)の右派はネット右翼になって、左派はブログで「抵抗」だの「運動」だの言っている。

ハイエンド系や、ワニやコアマガジンやホットミルク等のサブカル系オタク作家の痕跡は、エロゲの「泣き」に、「ヤンデレ」に、ラノベの表紙の塗りに、キャラの主線のラフさに引き継がれているぐらいだろう。

「主体は無いってそんな訳がないだろう!てめえの情けない立ち姿を見やがれ!」というようなオタク的自意識の問題。「日本は近代を超克していない。その証拠に湾岸戦争でオタついて、経済戦争でアメリカに負けたじゃないか。近代をもう一度やりなおすんだ」というような日本の自意識の問題。オタク的自意識は、テキストサイトの「鬱」ネタを経て、「非モテ」へ。再近代化論争は、日本人の愛国心の無さを見出した愛国者ネット右翼へ、民主主義が根付いていないことに見出した者は、「はてな左翼」に落ち着いて、両者は喧嘩ばかりしている。揚句の果てにゃ、「美しい国」と惚けて、「嫌韓」を消費し、「オタク」にポストモダンを見出し、「憲法9条」に不思議ちゃんよろしく一発逆転の夢をみる。「ポストモダン」の祭りの後に、私たちに冷や飯を食わせた不況が始まるという「歴史」は忘れ去られて、南京だの沖縄だの言っている。ああ、勿論、ハイエンド系はブックオフの100円棚行きだよ!

鎌やん先生の立っている場所は、たぶんこんな場所だ。ハイエンド系(というかサブカル系オタクエロマンガ)+90年代的物言い、といいますか。山本夜羽先生にせよ、鎌やん先生にせよ、そこにある「政治+オタク」的なものは普通の「はてな左翼」が想定するものではない。

山本夜羽先生は正直ツライと思う。だって師匠が山本直樹だもの。この小林よしのり大塚英志に絶賛されたビッグネームに彼はどうしても対抗せねばならない。師匠より萌えを描かなければならないし、師匠以上に政治を描かねばならない。でもサブカル系のオタクに属する彼の「萌え」では、石恵先生のシミュラークルが乱舞する今日一線級では通用しないだろう。政治は、色々と成果が上がっているように思うが、新左翼を目の上に持ってしまった山本直樹と、年少の彼とでは緊張感の質が違う。山本夜羽は人工的に緊張感を導入し続けねばならないのではないか?と。

鎌やん先生のオタク観は、「はてな」的なオタク観と違う。むしろ#104さんやシロクマさんに近いものがある。いや、彼ら以上に過激だ。「脱オタ」的マンガをリストアップせよ、と言われたら私は先生の『アニマル・ファーム』を真っ先に挙げる。そして本書はネットで物書いている人間の必読の書であるとも思う。「人ハ互イニ狼デアル」なんてものは胃酸無しには読めないし、彼の「制服考」ってマンガのメイド好きを全員敵に回しそうな物言いは、シロクマさんのhttp://www.nextftp.com/140014daiquiri/html_side/hpfiles/otaken/moe_cha.htmよりもっとえげつない。「猫と狼」は#104さんが普段言っていることだ(おそらく彼は鎌やん先生に影響されている)。そして鎌やん先生にとってのロリコンは、代替可能な、消費物じゃないだろう。生きるか死ぬかの問題がそこには転がっていて、愛しているのだか馬鹿にしているのか判らない「萌え」とは違う。

彼はロリコンについて以下のように書く

性欲の対象は自己を投影できるものを選びます
「自分がこうだったらいいのに」
あるいは
「じぶんはこうでしかない」
という内面の投影です

狼くんがロリコンだということは
狼くんの内面が
非力・無知・無害・幼稚
だということが推測されます。

鎌やん「人ハ互イニ狼デアル」

ここには性欲を自己の問題と観る視点があって、それは性欲を意趣比べ的に見せびらかし、消費し、あらゆる性欲は平等で無価値だと誇る今日のうわっついた「萌え」とは違うものが提示されている。そして、この物言いを最終的に否定はできないと思う。この辺りは、本田透がブレイクしたこととも関連してくる。

そして私見だが、鎌やん先生や山本夜羽先生の「政治」とは、社会的なものというよりは、彼らの実存のものであると愚考する。両者は本当に下らない理由で警察にお世話になっている。その彼らの叫ぶ「利益」は、利に疎い自分を乗り越えるための、いわば「脱オタ」な何かだろう。鎌やん先生のブログに「萌え絵」が無いのは、その辺りと繋がっていると思う。

さて、混乱してきた。ただ、世の中は進歩していない、ってのは確かだ。無論、堕落もしていない。そんな史観はとっくの昔に滅んでしまった。その為に人生を賭ける人間もいない。だから問題は、いきなり私たちを襲うだろうし、いきなり忘れ去られる。90年代は、一切清算されていない。だって、忘れさられた「脱オタ」に、私たちはいきなり襲われたではないか。