セカイを仰ぐ(90年代サブカル私見断片)1

無期限の徒刑囚のように、僕はこれから何十度も娘たちに服を買わねばならないのだろう。何千年分の味気無さを、先取りしなければならないのは、僕たちが輝かしい者たちの末裔だからであり、その血のたぎりの余熱を、残像を知っているが故の懲罰だった。
すべては終わった、と云う事が出来るように、何も終わっていない、何も始まっていない、ということも出来る。有線放送に耳を傾けながら女の子が試着を終えるのを待っている間にも、海の底では石臼が回り、数百万人の人々が拳を振り上げ、慟哭している。だが結局は同じ事だ。

福田和也「天は仰がず 小説家・中上健次

自分は、まあ、ひねくれ者だと思う。
中学生の頃、同世代の人間が『セーラームーン』や、あかほりさとるや、『天地無用』にハマっている中、自分は田丸浩史西川魯介の活躍する『少年キャプテン』を愛読していた。それと、ねこぢるが好きだった。オタ友が、あかほりラノベを読んで「外道」などと言っている横で、「外道が好きなら、ねこぢる読めよ」と思っていた。

高校のときは、『アフタヌーン』と『ビーム』だ。無論、ラノベで何やら革命が行われている真横で、ラノベをバカにしつつ、そういう物を読んでいた。『エヴァ』にはそれなりにハマったが、グッズを漁る奴はバカだと思っていたし、TV版のラストシーンに何ら違和感を持たなかった。あの手のやり方はサブカルや文学をやっている人間であれば、それなりに「あり」だと思うだろう。劇場版のテーマは「現実に戻れ!」ってことで統一されてきたように思うが、自分は特にそういう風に捉えなかった。「脱オタ」にせよ「文化としての脱オタ」にせよ、「現実に戻れ!」ってのは、それは『アフタヌーン』と『ビーム』で展開される普通のことだった。四季賞作家の青春物、オタク系の桜玉吉が「鬱だ」とのた打ち回っている姿を見慣れていれば、『エヴァ』の「現実に戻れ!」ってのは、同時代性を感じることがあっても、それ以上でもそれ以下でもない。

ただ、『エヴァ』は別にして、自分の十代の頃に熱中したマンガ諸作は、「マンガは終わった」と言われた後の作品群であり、そして私は自分の仰ぐ作品が、「終わった」後の作品が、この世の全てだと大いに誤解した。

『キャプテン』も『アフタヌーン』も『ビーム』も公式のマンガ史から半ば切り離されている。逆にいえば、マンガ史を知らなくても、90年代以降の傑作群はそれなりに楽しめる。文学史やオタク史を知らなくてもラノベが楽しめるように(?)

ひねくれていようが、いまいが、私は「歴史」と隔絶していて、その上で展開する諸事件を、楽しみ悲しむことしかできない。ヨーロッパの伝統から切り離され、『パリ、テキサス』のように、下らないメロドラマと、巨大な高速道路の支柱に囲まれ、終に楽しみ悲しむことしか覚えなかったアメリカ人を「動物」と呼ぶことができるだろう。その姿は私たちのものであり、さらにそのアメリカの姿に憧れているのは、「動物」以下であるか、逆に徹底化している。

私は原色の看板がそびえる国道沿いからしか、「歴史」を捉えられない。

優越感ゲーム」のために、口から漏れるマシンガントークのためにだけ、「歴史」は再び現れる。オタク雑誌編集者が戦後民主主義を見出し、アニメーターがノモンハン事件に出会ってしまったように。90年代サブカル崩れが、少年ジャンプ的ベトナム戦争を描き、プロレタリアートフラレタリアートと誤読し、イタリアの人工少女手塚治虫を見出すのも、オタクは日本の伝統と嘯くのも、靖国の英霊を祖先と仰ぐのも、勝手といえば勝手で、それこそが全てである。だから、虚無感に襲われる必要はない。ほら、君の好きな女の子が「冒険でしょでしょ」って歌っているよ。