この保守一人で回る3

2,3年まえの話だ。高校時代の友人の就職が決まり、引越しをするということになった。引越しの手伝いをするために、私は友人の家を訪ねた。ひさびさに出会った友人はオタク道のど真ん中を行く人物になっていた。その一人のオタクに私は何の感想もなかった。尊敬することもなかったし、嫌悪することもなかった。自分と違う人間のようにも感じなかったし、同じ人間のようにも思わなかった。オタクの作った作品や評論や思想を浴びまくった人間にとって、オタクへの賛美や罵倒は極めて日常的で無害なものである。いうならば「普通」なのだ。友人はちゆ12歳の素晴らしさを延々と語っていた。友人が何を言っていたかは忘れた。ただ、友人の語るちゆ12歳というものは退屈だった。斬られた人間からは血が噴出さない。斬った人間も返り血を浴びそうにない。友人は帰ったらすぐにちゆ12歳を見るように言った。私はそれから一度もちゆ12歳のページを見たことがない。
荷物をまとめていると大量のエロゲーが出てきた。手伝いの駄賃にと、エロ成分が不足していた私はその大半を頂いた。遠く別れる友人からエロゲーを貰う、ということは心理学的にいうとどうなのか?やっぱりアレなのか?と思った。エロ不足や、アレな衝動やらの他にエロゲーの山を貰った理由は他にもある。その山の中に『AIR』が混ざっていたからである。
AIR』をプレイして、あまり良い感想は持たなかった。何もしないくせに威張っている主人公と、その主人公を甘やかす周りのキャラクターが嫌だった。かわいそうなヒロインにしても、結局のところモニタの前にいる自分自身の姿ではないか。そのヒロインを眺めて泣くことなんてできない。ヒロインに自分自身を見て、憎悪を覚えるだけである。
うまく感想をいうことができない。柄谷行人のエッセイ『歴史と他者―武田泰淳』の川端康成『雪国』について触れた部分が、自分の『AIR』に関する感想を言い当てているような気がした。引用する。

ノーベル賞を受けた川端康成の『雪国』は「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」ではじまる。主人公にとって、トンネルの向こうは別世界である。妻子のある主人公がトンネルがトンネルを抜けてこの世界に入るかどうかは、彼の気分次第だ。彼はいつでもそこから引き返すことができる旅行者にすぎない。彼が温泉の芸者たちとの愛の関係に苦悩したとしても、彼はそこで傷つくことはない。なぜなら、別の(他の)世界であるにもかかわらず、彼はなんら「他者」に出会っていないからである。しかも、川端がそのことをはっきり自覚していることは、頻繁に用いられる「鏡」のイメージからも明らかである。つまり、主人公にとって、女たちは鏡に映った像においてあるだけなのだ。女たちが現実においてどうであろうと、彼は鏡に、いいかえれば自己意識に映った像以外なんらの関心ももたない。

AIR』を"空(そら)"と訳し、理解する気にはとてもなれない。『AIR』とは「空気」であり、「気分」である。そのようにしか思えない。「気分」を冠したマンガ史に残る作品に『気分はもう戦争』というものがある。登場人物のハチマキは「あの世代は戦争ひとつ満足に楽しめなかったんだぞ」「いいかよく聞きゃあれ! 俺は好きこのんで戦争しているんだ あんたらと一緒にしねェでくれ!」とハッタリをかましてみせる。すごくカッコイイ。そしてこの台詞は右翼や左翼を同時にぶった切るのにとても便利である。でも、私はもう少し遠くに行きたかったのだ。「劇画」といえば『北斗の拳』や『野望の王国』ぐらいしか頭に浮かばない人間には、大友克洋のことなんて本当はわからない。大友よりもKEY的な図像のほうがリアルなのだ。だからこそ、『AIR』よりも遠くに、アメリカの日本文学者が愛した無力で美しい『雪国』よりも遠くに。

藤岡信勝は「空気」というキーワードを使って以下のように語っている。

最後の五点目ですが、全社一斉に横並びで(注:従軍慰安婦の記述が)入ったということ自体が、きわめて不明朗です。これは教科書業界の談合体質を表わす以外の何ものでもないといえます。もし談合なしに偶然入ったとしたら、これはもっと恐ろしいことです。声の大きいマスコミがつくり出す「空気」にみな右にならえをして、すべての教科書の著者たちが、まるで魔法に操られたように慰安婦のことを教科書に書き込まなければならないと思い立ったとすれば、これほど恐ろしい集団催眠現象はありません。
 事実を検証もせずに、まさにそのときどきの「空気」に従って動く、そのときどきの「空気」に従って教科書がいかようにも変わる、これほど恐ろしい事態はないのではないでしょうか。

西尾幹二藤岡信勝『国民の油断』

そのような教科書業界の談合体質は、多様な教科書を国民が選択できる可能性を排除するゆゆしき事態である。また、談合がなかったというなら、教科書著者たちが、声の大きいマスコミがつくり出す「空気」に支配されている点で、その体質は戦中の軍国主義時代と同じである。

藤岡信勝『汚辱の近現代史

無論「空気」は藤岡独自のキーワードではない。しかしナショナリストと呼ばれる藤岡が、日本の悪しき習慣(伝統)として設定された「空気」を嫌悪していることを人は知っておくべきである。日本人たろうとすれば、伝統を破壊せざるをえないこと。「平和」で囲まれた学校と社会で「空気」が読めなかった人間。彼らはナショナリストへとなっていった。
1997年7月19日に公開されたエヴァンゲリオンの劇場版のタイトルは『Air/まごころを、君に』である。この劇場アニメにおいて、ついに「神」は姿を現さず、「父殺し」は未完に終わり、シンジはアスカの首を絞めた。これらを「成果」と評価することもできるし、「結果」と呼ぶこともできるだろう。でも私にとってそれは出発点であった。そこからできるだけ遠くに行きたかった。

注:引用部の強調は保田による