mixiの私の日記から転載

よせばいいのに、日記

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が、妙にかぶっている件。


http://www.allneetnippon.jp/2007/08/2_9.html
業界のカラシニコフ社ともいえるiriverのmp3プレイヤーにこのファイルをぶち込み、深夜に自転車に乗りながら、聴いた。

口調から思うに、古澤克大氏は、紛れも無いオタクであると思った。いうならば『げんしけん』の斑目先輩的オタク。ハイテンションで理屈っぽく、かといって自信なさげな声調で、ところどころでクリティカルなことを言い、順調に地雷を踏んでしまうというような。

古澤氏は非モテであった。雨宮・香山コンビ相手に「今日は両手に花ですね」と言って、「それはセクハラじゃね?」と返される。雨宮が「私ペット飼ってるんですよ」と言うと「じゃあこんど見せてくださいよ。」とか言わずに華麗にスルーし、揚句に「そこで絡んでこないから、お前は非モテだ」みたいなふうに言われる。そして焦った彼は褒めるつもりで「今日は二人の熟女に会えてよかった」みたいに言って、「じゅ、熟女だって!」とドン引きされる。古澤氏カワイソス

彼は、私たちの同類で、遠くない友人である。迷惑だろうが、そう思った。

その彼が「個人的なことは政治的なこと」と、このラジオで言っていた。

「個人的なことは政治的なこと」とは、個人とその趣味は社会に包括されるといってもいいはずだ。個人主義的傾向を持つ趣味人はこの言葉を忌み嫌うだろうし、「萌え」という反社会的かつ反反社会的なベットの下に隠してあるような趣味は、作品や個人の「社会への還元」や「社会反映論」を唾棄するだろう。

古澤克大氏はオタクである。しかし「個人的なことは政治的なこと」と雨宮・香山コンビに引かれながらも、発言した。これは人によっては意味不明だろうが、私には何と無く理解できる。

党派とイデオロギーを今日は無視しよう。例えば、『嫌韓流』には、オタク的(=マンガ的・個人的)強度はない。絵もストーリーもキャラクターも糞だ。だが主題だけはある。勘違いとしか思われていないだろうが、社会をよくしてやろうという意志がある。そしてこういうものが、オタクに読まれているのが現代だ。

なぜこんなことになったかは、個々人が考えて欲しい。私は、竹熊健太郎のようなディレッタントに対抗するには、後から来た世代は、野暮になるしかなかったと思う。社会という野暮を担ぎ、茶室に土足で上がりこむような行為に、可能性があったと思う。今もあるように少し思っている。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=532599592&owner_id=1194049

と書いた後に、この騒動である。いかに私の鼻が効かないことか。いかに自分が人間関係において非政治的か!