萌え雑感

一昔前の萌えってのは社会学的な問題でもなくて、無論学術的なもんでもなくて、個人の暗い問題で。克服するか、折り合いをつけるしかない問題というか。人様に見せられるもんじゃないし、勿論開き直れるものでもなかった。

だからこそ、明け透けでベタなオタクが許せなかったし、サブカルはそれら暗さにたいする代替になるのでは?と思った。暗さを暗さとしてみるか(町田ひらく鎌やん)、暗さをメタ視してポップにするか(町野変丸)。暗さをモニタの前に横たわらせるか(『雫』)。

でも「個人の暗い問題」こそが社会的問題って物言いが流れ始めたり、萌えと暗い性癖とが切り離せえるって物言いは、自分にとってはある種の救いではあった。自分を動物でしかありえないとあきらめ、その体たらくをメタに眺めることは、ちょっとは気がまぎれることではあった。

ネットで萌えと吠えることは、結構楽しい。自分のように可哀想な女の子で「泣く」ことは、欺瞞に他ならないが、気がまぎれる行為ではある。おそらく自分はしばらくこれをやめるつもりはない。

しかし、さて、どこまでこの物言いは正しいのか、通用するのか、と最近では思い始めている。やはり、ハルヒは痛さを回避した、単なる暴走ではないか。本当の彼女は背を丸めて、今日も目を伏せているだけではないか。あんな女なんぞいない、あんな現実などありえない、という物言いが頭の隅で鳴る。後ろ髪を引っ張られる。

苺ましまろ』ってのも暗いマンガではあると思う。単行本未収録部分には重要なキャラクターとして「おにいさんキャラ」が出てきていたはずだ。その痕跡が見事に公式分では消去されている。幼女愛を、半端なレズという形で迂回することによって、実現している。いたはずの「おにいさんキャラ」を消毒することによって。迂回した暗さは後後に襲ってくるのではないか。

暗さぶるのは、もう勘弁してもらいたいし、そのように振舞えるのはある種の明るさなんだけど、でも明るく振舞っている自分の中で、何かが燻っていることも全く否定できない。炎上が始まったときに、すえておくだけの腹が用意できているか?と問われれば、疑わしい限りだ。

「萌え」ってのは嘘だったんじゃないか。とガキに襟首を捕まれて怒鳴られたら、自分は謝ることさえもできないと思う。いや、ガキはガキで強く生きてるかも知れんが。

私は物言いが変わっただけであると思っている。現実は昔から変わっていないと思う。無論、物言いこそがすべてだともいえる。ただ、物言いが何かで変われば、また新しい、予想もしなかった現実がやってきて、この目の前の見えるものが変わっていくだろうと思う。また、自分には自分の周辺の物言いで世界を切り取っているだけで、世界は昔から全く変わっていないといういないのではないか、という疑念が強くある。さて。どうしましょうかね。