『恋空』を立ち読みする

わしズム25号』を読んでいたら、宮台真司が『恋空』のことをを「どうしてこれで泣けるかわかりません」と言っていた。宮台先生をして、「わからない」と言わしめた『恋空』って作品は物凄いのではないか?と思い、立ち読んでみた。

DQNをベタベタに描いた作品と言おうか。DQNによる、DQNの為の小説と言うべきか。限界芸術という言葉も力負けしている小説というべきか。こんな感じの感想を持った。登場人物たちが会話するたびに、目の前にDQNが現れ、思考し、会話している情景が浮かんでくるように感じた。そういう意味でこの作品を私は「リアル」に感じた。DQNのクセにDQNの彼氏を「ヤンキー」と呼ぶバカな主人公なんてのは「リアル」だし、自転車に乗って主人公に会いに来る彼氏も「リアル」だ。沁みったれたような「リアル」だ。

読書人の間での差異化ゲームとして、DQNを演じるような人間。所詮DQNでしかありえない自分を、読書人にウケ易いように皿に盛る人間。この手の人間は今日も新人賞を賑わしているだろうが、メタDQNでもネタDQNでもないベタベタにDQNな『恋空』を前にして彼らは、自身の中途半端さや薄っぺらさを痛感するしかないのではないか。それか本物のバカを見てドン引きするか、だろう。『恋空』は、半端なDQNを演じる彼らに襟を正すように求めてくる作品ではないか、と私には思えた。

リュウという名前の主人公で芥川賞をとった村上龍は、美嘉という主人公を描いた美嘉の『恋空』をどのように読むのだろう?)

話の展開はクズとしか言いようがない。気味が悪いぐらいに平坦に描かれたレイプという事件は、ストーリをまわすためだけに存在し、この手のご都合主義を序盤に持ってくる辺りは、いきなりのネタ切れ感がして、人を脱力させる。マンガ化するならSABEや道満晴明あたりに8ページぐらいでやってもらえると、大変な傑作に仕上がるだろう。

『恋空』のように、徹底的にベタであることは、ネタ・メタに対しては異様な破壊力があるように思われた。なんせ社会学者をして「わからない」だもんな。批評家タイプの人間が『恋空』を描いたのならば、彼は一流だろうし、そうでなければ単なるバカだろう。『恋空』のベタベタさをリスペクトする意味で、私もベタベタな発言をして感想を〆たい。「バカは小説を書くな!」