新人類世代と私(断片4)
新人類世代ってのは宮台真司や大塚英志、福田和也や坪内祐三や唐沢俊一や岡田斗司夫。山本直樹やとり・みきたちの世代であるのと同時に、自分にとっては何よりも中高の教師たちの世代である。80年代に二十代を送った彼らの特徴は、軽くて明るくて何よりも豊かなことであると思う。
この手の教師は文化祭とか体育祭とかのときに、生徒の数倍盛り上がっていた。生徒は彼らに巻き込まれるだけだった。文化祭の企画でディスコを教師自身が企画して、自分で踊り狂っていたりした。 仕方がないから教師になったのではなく、好きだから教師になったおそらくは最初の世代。バブル景気に沸く大企業に勤められた可能性を蹴って、教師になった世代。こいつらの豊かさに、「教師になるか死ぬか」というような真面目さで教員資格を取った人間は一生敵わないだろう。
高校三年生時の英語教師もこの手のタイプだった。銀行員を辞めて教師になった異色の人間。シャイだが、根本的に明るく、無理を言わなくて育ちの良い、旧世代の教師とは全く違うタイプの教師だった。
その彼が英語の授業中に、小林よしのり『戦争論』の話をしたときには驚いた。彼は10代の頃からアメリカ人と文通をしたり、海外へホームステイをしたり、何よりも英語教師になるぐらいには「国際的」な人間だった。80年代俗流ポストモダニズム用語でいう「外部」を地で学んだような人間だ。その彼は「ナショナリズム」を語った。彼流の気恥ずかしさとともに。
ナショナリズムは彼らの弟子の問題であるのと同時に、豊かな時代を生きた世代の問題でもある。本書はそれに答えていると思う。