80年代と私(断片3)

某零細出版社の面接で、近江商人の話をしたら、堤清二の話題になった。「メセナの先駆け」とか「80年代の消費文化が云々」という知ったかぶりをかました。面接官は少し不満そうな顔をして、「それもあるけど、彼の政治参加とか、父との葛藤とか、そういうのは知らないの?」という意味のことを言われた。全く知らなかったので、適当に受け流した。いうまでもなく面接には落ちた。

かわぐちかいじアウトローを描く作家から、社会派へと転身する過渡期の作品に『ライオン』という堤家と西武資本をモデルにしたマンガがある。ニューウェーヴに締め出された、かわぐちかいじの描く80年代。それは、80年代から暫くたった現在からでは、大友のフォローワーが読めないものになっているのとは真逆に、読みやすいものなっていると思う。

ガルシア=マルケス堤清二のことを「世界一富裕な詩人」と評したそうだ。自分は、ガルシアマルケスを読んだこともないし、またこの先読むこともないと思う。

いうまでもなく、自分は80年代のことを知らない。80年代が「脱構築」とかハッタリをかまさねばならなかった、重力というものを私は、書物を通してしか知りえない。

その80年代を批評的に見つめた新人類世代と呼ばれる作家たちが、自分が勝手に師匠と仰ぐ人々である。