北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』感想の断片1

いやあ。まいったね。どうしてこの本をもっと早く読まなかったのかと思ったよ。異論・反論全く無し。もう、その通りだとしかいえない。つくる会にコミットした大月隆寛ナンシー関を経由して持ってくるトコなんて、「ああその手があったか!」というか。そうなんだよ、ネット右翼なるものが出現する前の「ナショナリズム」というか「保守」的な兄ちゃん姉ちゃんは皆ナンシー関を読んでいたんじゃないかな。90年代的読書家の態度というかさ。私は読んでないけど(ええ!)

ナンシー関が死んだのと同時期に、安野モヨコ庵野秀明が結婚したんじゃなかったけ?んでなんだか切なくなったことを覚えているよ。まー、あんまり関係ないけど。

本書の終章で

最後に、本書の議論を別の角度から捉え返しつつ、「情況」に向けられたいくつかの診断(「ナショナリズム批判」「ロマン主義復権」)を検討し、「情況への処方箋」を提示することの困難を確認しておくこととしたい。

って書いたのも凄いね。社会学による分析(この世は駄目だ。おまえも駄目だ)→「実存」への訴えかけ(変わるしかないじゃないか。お前も世界も)ってコンボは今日の流行だろう。そんな中で、「アイロニーの徹底化こそが今日の『実存』の在りかたであり、その『実存』こそが『ナショナリズム』の中核だ」という本書の議論を踏まえて、「『情況への処方箋』を提示することの困難を確認しておく」と見栄を切っているのは、「実存」―「世界」=セカイ的なものを見事にズラしていると思う。

あと色々感想があるけど、後で書くよ。もう寝るよ。