クリスマスにバターを

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ほいほい。つまり「共通前提」→「共通前提を元にしたコミュニケーション」って構図が崩壊したわけだ。
んで「共通前提なし」→(それなのに)「共通前提を元にしたコミュニケーション」って世界が生まれた、と。
共通前提は崩壊したのに、共通前提を元にしかコミュニケーションしか私達はとれない。
こんな世界で出来ることは「共通前提を同じくしたコミュニティーに入って戯れる」ってこと。でもこれは基本的に少人数のコミュニティーの話。これじゃ社会はやっていけない。
では大人数というか全体はどのようになったか?といえば、「共通前提なし」→(それなのに)「共通前提を元にしたコミュニケーション」ってのを無理矢理まわすために、希少になった共通前提を尊重しろ!ってことになる。
それが「空気読め!」ってことだろう。
でも希少になった共通前提をどのように尊重すればいいか?といえば困難な話で、その結果全員が「共通前提を読み込もう」として全員が失敗し、コミュニケーション不全に陥ったり、コミュニケーションコストがあがったりする。
じゃ、どうすればいいか。「前提条件なし」→(それなのに)「前提条件を元にしたコミュニケーション」→(旧時代より強調される)「空気読め!」→「でも読めない」→「社会が回らない」って構図の代替案は何か?
それは「前提条件なし」→「前提条件を元にしないコミュニケーション」って構図を作り出すことだろう。知識人も「前提条件を元にしたコミュニケーション」→「前提条件を元にしないコミュニケーション」へと以降しろ、と。って話だと思う。


んで、私が宮台真司先生の文章を読んだ感想。特になし。昔は宮台先生の本を読んでたけど、読むと逆に勉強しなくなってしまうorzそれか「勉強しよう」と思っても次の日忘れてしまうというか。平易な断言体で判った気になって、それでお仕舞いorz

「横断する知識人」ってのは知識を横断するんじゃなくて、「横断する知識人」コミュみたいな内輪ネタになってしまうのではないか。「オタク」と「学術」を横断するつもりが「オタク+学術」っていう村社会になる。んでネタ切れで「非モテ」とか、大変志の低い事を言い出したりする。それと横断するつもりだったのに、雑多な知識の断片を蒐集することに終始して、とくに何も知らないってことになるかも知れん。それはそれで面白くはあるが。wikiで何か判った気になったり、社会にも出ず、難しい本も読まず、有名知識人のネットのコラムで判った気になって「そうか、横断しよう」とか言って明日には忘れていたりする。

前提条件が壊れた。んでどうしようか?ここで出てくるのは東浩紀先生の言う「環境管理型権力」だろう。社会の個々人に、人間としての共通点は見出せない。しかし、社会の個々人は、「動物」としては共通項を持ってはいる。それに訴えかけよう、と。

それか、前提条件を公共事業として、無理矢理復活させるという手もある。この辺はファシズム。ファッショってのは「束ねる」って意味でして。前提条件を失った個々人を「束ねる」。デュルケームファシズムって系譜があるって聞いたことがある。

ところで今日はクリスマスなのか。全く空気が読めてないエントリーでした。終わり(色々と)。