セクトといえば少女セクト Part.A

http://d.hatena.ne.jp/yasudayasuhiro/20070814#p1
http://d.hatena.ne.jp/i04/20070814/p3
このオフ会で、「日向めろん=一人べ平連」と言ったら、他の参加者全員からドン引きされた。


デモが好きか?と問われると正直困る。そんなものやったこともないし、見たこともないからだ。学生運動は?という問いも同様である。通っていた大学にその手の人々はいなかった。それどころか、彼らのライバルであろうナンパ系サークルも元気がなかった。オタ系サークルもほぼ壊滅。人は授業が終わるとまっすぐ家に帰るか、パソコン室でインターネットをしていた。私はそのなかの一人であった。

左翼系教授陣も元気がなかった。人は実学を好む。経営学や金融学、公務員試験や資格に関係ありそうな授業が人気だった。虚学も無いわけではなかったが、マルクスは退陣していた。なんせ、構造主義を通過した人間が教授になっているのが現代である。彼らは、左翼的・マルクス的なものを憎悪していた。それに甘い感覚を持つことさえも許しはしなかった。自分の大学の師はこの手の人間で、三浦雅士時代の『ユリイカ』こそが青春だったと語っていた。師は、ポスト構造主義者の左傾化を批判していた。「ポリティカル・コレクトネス的な言説を捨て、もう一度相対主義に立ちかえるべきだ」とおっしゃっていた。師は村上春樹を好んでもおられた。

師のスタイルは、師の個人史から決定されたものだろう。おそらく師は、隆盛していた学生運動を嫌悪しながら、そのオルタナティブを探求しつづけた。私は、どうだろう?政治運動が退潮した世界において、師と同じスタイルで生きようとするなら、師とは逆に、「政治」に接近することこそが真実であるように思えた。のってる人々にたいしてシラけた師の生きざまを引き継ごうとするなら、私はシラけた世界で、一人のりつづけなければならない、と。しかしそれは、「政治」→シラケへと進歩したであろう歴史への反逆である。反逆であれば、まだましなほうで、私は困ったことに、この歴史をよく知らないのだ。文物の中にこの手のことが書かれていることはしっているが、実感としては知らない。ならば、やはり「政治」への接近はアホ丸出しではないか。

アホであるから「政治」に萌えられるのだ。田中清弦萌え。唐牛健太郎萌え。右を向きゃ、小林よしのり萌え、西尾幹二萌え。左を向きゃ、民主萌え、共産主義萌え。とか言っていたら、見沢知簾が自殺した。いうまでも無く氏は「政治」の人だった。暴走族になって、左に行って、右に行って、鬱になって、自殺した。彼の飛び降り自殺を、政治の不能性と解釈するなら、私は「政治」から全面的に降りるべきだろう。鬱を引き起こしてしまう何かが、彼を政治に向かわせ、彼を癒すことができなかったのなら、私はその何かこそを見つめなければならない。


なぜ大杉栄は吃音だったのだろう?
なぜ、その吃音は政治演説をするときに止まったのだろう?
これは半ば都市伝説めいている。だが、なぜその都市伝説は広まっていったのだろう?


アキハバラ解放デモは中核派」という物言いを聞いたとき、激怒した。なぜこいつらはデマを飛ばすのかと思った。ただし10秒ほど。熟考するに、俺は何も知らないということに気づいた。中核派は知っているが、その息使いを知らない。オタク文化に通じているつもりだが、オタクとは親密に付き合ったことがない。主催者のページにアンテナを張っているが、彼らとは会ったこともない。それに政治の場には陰謀がつきもので、「花オフ」や「つくる会」の騒動で、その手のものを散々に味わった。それに第一、もしデモに中核派が関わっていたら、参加者にたいして責任がとれない。よくも知らない国を、地上の楽園と言って、人々の惨殺に手を貸した人間のようになるのは勘弁して欲しい。取りあえず、静観を決め込むことにした。そして、この手の問題を実感として生きた人間の物言いに耳をすませた。

この判断は正解だった。そして同時に、「中核派云々」以上にややこしい問題が大量に浮上しているように思えた。

ぶっちゃけていうと「痛い」から人は政治に向かうのだという事だ。

投票に行くときのあの得体の知れない気恥ずかしさ。民主党のポスターのコピーと、自民党員の実も蓋もないあの顔。ご近所の共産党一家と創価一家との間に何の差異があるというのだろう?そして、なぜ、ブログでは政治論が語れるのに、日常生活では語れないのだろう。

あの「痛さ」を人は啓蒙することができるだろう。市民になれ、と。国民の義務だ、と。あえてやるのだ、と。しかし、この騒動は、この「政治=痛い」的な無知蒙昧さを肯定するような事件ばかりが起こった。ならば、この感覚には、それ相応の深い理由があるのではないか、と気づかされた。

それでもなお、と胸を張る事もできる。政治は今日も空回りしている、という議論に耳を貸す事もできる。お前が、酷い目に会っているのは政治のせいだという物言いに、期待してしまう。

でも、だ。なんか今回の件で落ち込んでしまった。右翼萌えも、共産趣味も、リベラルぶるのも、単に「痛い」のではないか。「痛い」人間が癒しとして持ち出した「政治」は、機能するのだろうか?500人をアキハバラ終結させた「政治」は、たった2ヶ月の間に空中分解してしまった。

まず「痛さ」について考えなければならないのかも知れない。そこからしか、何も始まらないような気がする。