縞パンの不自由

どくそせん

どくそせん

やめときゃいいのに、『どくそせん』を買って読んでいる。

「萌え」に人は様々なものを見出していて、自分も「萌え」に対して様々な可能性を見ている。

ちょっと前の話だけど、自分と同じようなものを見てきた人間が、黒田硫黄のパクリ(またはパクリのパクリ)的技法で「青春の苦しさ、そして喜び。」的なものを描き、マンガ雑誌の新人賞でうろついているのが我慢ならなかった。お前らは不自由すぎる、と。わかり易すぎる、と。

そんな中で、幼女がワラワラ出てくるような四コママンガを描いているような奴らは、堂々と無人の野を走り回っているように思えた。そこに自分は新しさと自由さを見出していたのかもしれない。

しかし、そのような「萌え」の可能性も何処かで何時かで閉ざされていくことになるだろう。人はすぐ飽きるものだし、柳の下のどじょうは乱獲されすぎている。

ブルマの人である某氏は「縞パン」を憎悪している。そして多分「萌え」+「軍事」も憎悪している。そんなことを思っていながら、『どくそせん』を読んでいたら、出てくるキャラどもが「縞パン」をはいていて、何だかウンザリした。なぜ、「萌え」というと人は「縞パン」をはかせたがるのか。

このようなものに目新しさはない。そして、ふたばや2ちゃんねる界隈で散々やりつくされたパロディネタをそのまま持ってくるのは、作家として如何なもんか。

縞パン」という不自由。「縞パン」という抑圧。

最近、浅野いにお『虹ヶ原ホログラフ』を読んだら中々面白かった。さてどっちが生き残るもんやら。