やるきなし3

西尾幹二大明神がブログで書いている「ハンス・ホルバインとわたしの四十年」シリーズがとても面白い。サヨクのあンたにこそ、これを読んで欲しい。

「物」を見てしまう目というものがある。「マンガ表現論」ってものは多分そういうものに注目した評論だと思う。でも「マンガ表現論」の取り上げられ方は「社会反映論」からの「進歩」という「観念」にとらわれてもいる。またマンガ界において「進歩」はほぼ忘れられている。「マンガ表現論」の苦闘はこうして始まる。

「物」は危険である。物神崇拝を禁じた一神教の気持ちがなんとなくわかる。「物」を前に、人は勝手なものを見る。そうなると同じ「物」をみているのに、違うことを人は考え始める。かくして一つの世界は消えて、島宇宙やらひきこもりやらが生まれる。

俺は1950年代手塚の線と1960年代手塚の線の違いがわからない。差異があるのはわかるが、「価値」の差があるのかどうかは、わからない。でも一方において「価値」の差があると考える人もいるわけだ。バイト先のガキに、富沢ひとしという極めて視覚的な作家のこと教えたら「なンすか、この下手な絵」と言われた。

「物」は人を分断する。でも自由にもする。西尾のいう「自由主義史観」の自由とはおそらくこれのことをいうのだと思う。しかし西尾は『自由の悲劇』という本を書いてもいる。ここらあたりに西尾の個性というか自由が現れている。そしてその一方でhttp://nishiokanji.com/blog/holbein_grabe00.jpgという絵それ自体も存在するわけだ。

 ハンス・ホルバインの「死せるキリスト」を前に私は、恐らくネットの読者の皆さまも、言葉を失った。言葉の無力を感じた。それでも言葉を求めたであろう。私の言葉を大急ぎで読んで、納得したり、納得しなかったりしたであろう。あるいは自分の言葉をまさぐり、唱えては、心の奥深くにしまいこんだであろう。

 歴史とはそういうものではないか。言葉は無力でもやはり必要なのである。

ここでもう一度「観念」が出現する。よくわからんが「物」も「言葉」も大切なのだ。