何処かの昭和。何処かの靖国3

靖国は正しいか?否か?」は所謂「靖国問題」からズレている。よって「天皇靖国を間違っていると考えていた」という物言いは「靖国問題」からズレている。

そもそも私たちは死者を一体どのように考えているのだろう?たとえば私の曽祖父の遺骨はどこにあるのか解らない。それは南の島で戦死してどっかに転がっているからではない。理由は簡単で曽祖父の遺体は川原に埋められたからである。なぜ川原に埋められたかといえば、単にそれが風習だからである。そのくせ川原とは別の場所にある寺には「保田家先祖代々の墓」ってもんが建っている。

人は交通事故で死者が出ればその場所に花束を捧げる。仏教徒でもないのに死んだら仏教徒になる。死んだらあの世に行くくせに、死者は草葉の影から見ているなどという。首相はお盆に靖国神社に行ったりもする。

こんな悪くいえばルーズ、良くいえば寛容な日本人は、靖国を肯定も否定もしてはいない。だから天皇靖国に行かなくたって、首相が靖国に行かなくたって平気なのだ。なぜなら死者はどこにでもいるから。

よって靖国問題は以下の三点に絞られると思う
政教分離憲法には書かれている。首相が靖国に参拝するのはこれに違反していないか。
中韓が日本国首相の靖国参拝に反対するのは、内政干渉ではないか。
中韓の主張に日本国首相が従うのは、日本国の代表として問題ではないか。

このような本来の前提(文脈)を私たちは忘れてはならないと思う。このような意識がなくては歴史問題になんぞ首を突っ込めないと思う。