近頃の落ちかた

「兄ちゃん。『エヴァンゲリオン』置いてるかい?」

「え、何だって?あんたは客なんだろうけど、人としゃべる時ぐらいはきちんとしろよな。で、何のエヴァンゲリオン?『育成計画』?『鋼鉄のガールフレンド』?サターンのエヴァンゲリオンだったら100円であるぜ。」

上記の会話は嘘で、私は客の風貌から予想して、彼をパチンコのゲームが置いてある棚まで案内した。こういうのを差別っていうんだろうな、と思いながら。

「違うよ兄ちゃん。『育成計画』の方だよ。」
などという言葉が客の口から出たら、「ボクらエヴァ世代」などとDQN風の彼と肩を組んで自分の世代の正義を訴えることもできただろうが、無論そんなことはなかった。客はパチンコのエヴァを買っていった。

エヴァがパチンコ・パチスロになったことについて多くの人が色々書いていることだろう。「結局、エヴァってのはこうなってしまうものだったんだ」みたいな意見もある。ただ、一言だけ言わせてもらうなら、エヴァのコーヒー缶が出た時点でこういうことになるだろうと当時の私は何となく予想していた。

私はエヴァにハマったことは確かだけども、同人誌やグッズは買い漁らなかったし、ネルフのロゴの入った財布を持ってきている同級生を馬鹿にしたりもした。かといって私はエヴァにハマッた同級生達から排除されることはなかった。おそらく私も友人たちもエヴァに「絶対的なもの」を見ていなかったためだと思う。

最近べ平連に関する本を少し読んだ。読んで興奮してしまったことを告白する。でもやはりあの様なものは気持ちが悪い。べ平連のデモの様子に私は「人類補完計画」を見た。そして自分が右翼的言説を選んだことが間違いではなかったことを確信した。もう、おそらく、1つの世代に対応する1つの経験というものは存在しえない。エヴァは誤読されうるし、誤読されるということに耐えなければならない。他人と自分とが溶け合ってしまう「人類補完計画」を拒否すること。これが自分のエヴァ経験である。だからエヴァがパチンコになったって平気なのだ。