city(まち)は煌くパッション・ブルー

佐伯啓思『「シミュレーション社会」の神話』を読む。なんじゃこりゃ。内容は横に置くとしても、この言い方はどうなんだろう。

食事をするときもトイレへはいる時もウォークマンを頭にひっかけたままで絶え間なく鼓膜を愛撫し続けているウォークマン中毒の若者は...

都市のワンルームマンションにささやかな王国を構え、真夜中の六本木のディスコでひと踊りした後は、ちょっと高級な外車で湾岸道路を疾走する。こんな悲しいほどに類型化された都市生活者がいるとしたら、彼の生は、彼のような都市生活者を主人公にした映画やテレビドラマの「シミュレーション」にすぎないのである。

ここではあらゆる文化的商品を―『「資本論」から「トットちゃん」まで』(吉本隆明)を、芸術写真から盗み撮り写真までを、タルコフスキーから村西とおる監督までを―...

本書には『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の解説のようなものも載っているのだが、とても痛々しい。流行に踊らなければならなかった地方の学者の情けなさが滲み出ている。昔、再放送で『バイファム』というアニメを見たことがある。そのOPソングのやるせなさに本書の物言いは匹敵している。

下らない用事で、堤康次郎のお膝元の西友に行ってきた。赤レンガで装飾した外面は、プラスチックの張りぼてとしか思えない今日の小売店舗と比べれば、遥かに壮観である。しかし中に入ってみると、テナントはまばらで、店のなかも小汚かった。食い物の屋台の隣で激安を謳った散髪屋が客の髪を切っているのには絶句した。一地方の80年代はかくして廃墟に変わった。しかし、この廃墟は嫌いではない。大友克洋とそのフォーローワーの描く倒壊したビル群よりも、腐った西友のほうが、美しい。そして現在、保守と認められる佐伯啓思も嫌いではない。