近頃の黙示録

戦後民主主義者は必ずしも非暴力主義ではない。また平和主義は必ずしも非暴力主義と一致するものではない。小熊英二『<民主>と<愛国>』より引用する。

当時の護憲論者には、国民によるレジスタンス活動や民兵制を支持する意見が存在したことである。たとえば、当時は再軍備反対の急先鋒だった清水幾太郎は、一九五二年の座談会で、「日本でも各人の家に武器があって、僕の家にも一挺の機関銃くらいあるというなら、日本の再軍備も大いに賛成する」と述べている。竹内好も一九五二年に中国を参考に民兵制に共感を示しているし、丸山真男は「全国の各世帯にせめてピストルを一挺ずつ配給して、世帯主において管理する」というプランを提唱した
こうした主張は、専守防衛のスイスの民兵制などを参考にして<国家の武装>とは異なる<国民の武装>を志向したものであった。国家の軍隊が、国民の政治活動を弾圧しかねないという恐怖は、戦争体験によって人びとのなかに強く焼きつけられていた。それにたいして、国民が武装する民兵制は、国民が政府と闘う武装にも転化しうるものであった。
丸山真男によれば、日本は政府による国民の武装解除が早くから徹底した国であるため、個々人の「自己武装権」という発想がなく、「自衛権」といえば「『国家』の自衛権」のことだと考えられてしまう。第二次大戦下のフランスでみられたように、国家が降伏したあとも、人民がレジスタンスで立ちあがるという発想が弱いのは、そのためであるという。
それゆえに丸山の考えでは、日本でも各家庭に銃を配布すれば、政府に頼らない個人の「主体性」と、真の意味での「自衛」の思想が根づく。そして「外国軍隊が入って来て乱暴狼藉しても、自衛権のない国民は手を束ねるほかはないという再軍備派の言葉の魔術もそれほど効かなくなるにちがいない」というのだった。

どうしてこんな文章を引用したかといえば下の記事を読んだからです
http://www.asahi.com/national/update/0327/TKY200603270260.html
ついにわが国にも機関銃を持った「市民」=「個人」が出現したってわけ。市民団体に石を投げている場合じゃないよ、ナショナリストは。こういうのこそが真の敵じゃないか。