この保守一人で回る

つくる会」の本を集中的に読むことにする。彼らの言い分を要約して、それを批判することは極めて簡単である。しかし、だ。どうも彼らは「生々しい」。彼らの言い分を要約してしまえば、その「生々しさ」はこぼれ落ちるだろう。日本の右傾化はこの「生々しさ」に因るものではないか。右傾化を批判するならば、この「生々しさ」こそを撃たねばならない。ま、それはサヨクの仕事なので自分には関係ないことだけど。

ところが不思議なことに、執筆者が一貫して敵視している対象は一定していないのです。あるときは明治政府であり、やがて日本の資本主義であり、戦後の場合にはアメリカ帝国主義が反対の対象であり、日本の今日の体制にも反対しています。そして、その敵視するにふさわしい材料だけが歴史の中から好き勝手に拾い出され、並べられているだけです。

西尾幹二藤岡信勝『国民の油断』、西尾幹二の発言から

教科書を真に受けた人間の目には、ありとあらゆるところに「小さき敵たち」が並列する世界が映る。こんな世界の中で正気を保つためには、「小さき敵たち」を全て無視して、世の中には敵などいないと思い込むほかない。正気を保てなかった人間は、この世の全てが「小さき敵たち」によって支配されているのだと思い、「小さき敵たち」に毒を吐きつけつづける。そしてそれに飽きた者は、真の敵を探し始める。「敵、敵、敵、敵、ボクの敵(碇シンジ)」

少年Aだって、<敵>が見つからなかったんだ。六〇年、七〇年安保の時は全学連全共闘に、国家権力=機動隊という敵があった。ゾクにも警察という敵が、企業戦士にもアメリカなどのメジャーという敵があった。しかし、今、<敵>は見えてこない。少年Aは、ある意味で叫びたかったのだろう。「これでいいの?敵は誰なんだ、こんな生首でいいの?」と。

見沢知廉『日本を撃て』

こんな泥沼にはまらないためには、教科書なんぞを真に受けなければいい。「左翼の書いた教科書を信用するな」と言えばいい(今やブログもあるんだし*注)。しかし何故か彼らは教科書を書くことになった。その彼らの教科書とはどのようなものか?(つづくかも)

注:ブログ保守こと西尾幹二先生は「つくる会」を辞めたわけだけど。西尾氏は「若い人と言葉が通じなくなってきて、むなしい。これからは自分の著作に専念したい」だと。うーん。