カラオケに『鳥の唄』が入っていない

嫌オタク流

嫌オタク流

とにかく中原昌也が面白い。中原昌也の一人勝ちである。彼の駄ボラを聞いていると「萌え」にしろ「オタク」にしろ、世界認識の一つでしかないことに改めて気づかされる。私たちはもっと自由であってもいいはずである。サブカルやら一部の一般人による「オタク」の享受は彼らが自由になるための研鑽である。

中原は対談中に『メガストア』をぱらぱらとめくりながら「ダメだ、ワケ分かんねえ。いや、すごいと思うよ。全然分かんないもん。もう何も分かんないよ」という。これは彼最大の賛辞であろう。それと同時に、この行動は更科修一郎がいうように「異文化コミュニケーション」の一種である。30も半ば過ぎて果敢に「異文化」にコミュニケーションする彼の姿を「萌え」によって手足を縛られている人間は素直に見習ったほうがいい。

話は変わる。更科修一郎遊佐未森zabadak、そのフォローワーたちを「偽ケルト系」といっていた。おそらく間違ってはいない。しかし「本ケルト系」をキリスト教に征服されたことがない日本人が嬉々として聞く姿は異常であるし、欺瞞である。(『嫌オタク流』には「黒人差別」というキーワードが出てくる。いうまでもなく「黒人」と「黒人音楽」に自らを投影することも欺瞞である。)おそらく私たちはこの「偽ケルト系」から出発するしかない。「偽」であることが現実なのである。「本物」による一発逆転の救済を夢見てはならない。

更科修一郎が薦めていた『忘却の旋律』を今観ている。コスプレちっくな格好の主人公が寂れた温泉街を歩くシーンは最高である。「ぼくたちの現実が変わらぬかぎり、ぼくたちは執拗にぼくたちの絶望を固執しなければなるぬ。―もし希望というものが生まれうるなら、それはまさにこの絶望のうちからである。とすれば、ぼくたちはこの絶望を観念によって救おうとしてはならない。(福田恒存)」