日本の国益にご奉仕するにゃん

昨日は大阪で迷子だった。阪神のお土産があるところでニッチもサッチも行かなくなった。日本橋には行かなかった。ブックオフにも寄らなかった。見晴らしのいいところに行きたくてビルの屋上まで登った。雨で濡れた鉄製の階段で足を滑らせる。誰もいない屋上の駐車場。3流現代日本映画じゃないか。ポケットのMP3プレイヤーから、パンクと環境音楽が聞こえる。高くて足が震える。傘の骨が折れている。地下鉄が鳴る。おおきな鉄のカートの音。サティの看板が見える。

いくるみさんが旅に出られたようだ。どこかに行ってから色々というのは卑怯だけども、私は彼の絵よりもマンガのほうが好きだった。前のサイトに掲載された無職の父と息子を描いたものと、母のない娘の恋愛話は、何かとらえ所のないものを掴んでいた、と思う。父と息子の話は全く18禁絵系サイト向きでない。母のない娘の恋愛話もエロの部分はゴッソリ抜けている。しかし、作品は作品として十分に成立してしまっている。

これを彼の「毒」と読むこともできるだろう。しかし彼が、ウケようと思って「毒」を吐くのならば、その方向は既成のエロマンガや売れ筋のマンガに向かって吐くほうが良いに決まっている。

『AIR』いう一世を風靡したエロゲーがある。これにもエロとは無関係とも思える母子関係というものが大きなファクターとして現れる。でも、これは作品の方法としてはわかりやすい。(余談。ヒロインはてめえ自身の姿である。そして変なジュースを飲みながら幸福な日が来るのを永遠と待ち望んでいる姿はオタクに限った生き方ではない。サブカル人間こそこの感覚を思い知るべきである。)だが、いくるみさんのマンガは全くわからない。マンガ自体は二昔前の双葉社系といった感じで、雑音なく完成されている。この完成されたものが彼のサイトのエロ絵の中で雑音として存在する。

いくるみさんは前のサイトで「私はオタクと人文の間で行き場を失っている」みたいなことを仰っていた。人文ではなく、学問だったような気もするし哲学だったような気もする。どちらにせよ、「学術」とオタクの間を生きることは現代において苦痛でもなんでもない。これは退屈であり、王道である。その中で行き場を失う、とは何事か。勿論、行き場を失ったから彼が旅に出たというのは間違いである。勝手なことばかり言っているが、彼の手には退屈から逃れるための感触が宿っているのではないか。


地下鉄新大阪駅で『小林秀雄全作品9』を読んだ。文章が現代かな使いに変換してあって、脚注が大量に入っているえらく親切なヤツである。
第一回池谷信三郎賞推薦理由と題された中村光夫を同賞に推す文章の一部が面白かったので引用する

第二、彼(保田注、中村光夫のこと)は勉強家であること。これも世上最も普通の意味での忍耐強い勉強家の事で、ネクタイを買う金があったら彼は本を買う。僕は今後、少なくとも批評家は銀座通りからは生まれないと信じている。カフェで日独協定など論じている奴はもう古いのだ。

「日独協定」はカフェで説かれるような「新しい・古い」の問題であった、と断定するのは早急すぎるだろうか。「ナチスの技術は世界一」と嘯く私たちと先人は全く変わらないのではないか。「銀座通り」のスカした奴らが政策を趣味判断として消費していく状況は、現代にそのまま投影できるような気がする。

この「新しさ」を「古い」と馬鹿にした、1937年の小林秀雄はさぞカッコよかったことだろう。勿論、この言葉で転向した奴はいないわけだが。戦後、戦時中の嗜好を「古い」という人間が「銀座通り」に現れた。小林はこういう連中をどんな目でみていたのだろう。

付記

「新しい」「歴史」「教科書」のなかで私が最も興奮したのは、「歴史」でも「教科書」でもなく、その「新しい」さである。この「新しい」は現在「萌え」によって刷新された。『ぱにぽに』の快進撃の前で、ナショナリストの唱える「物語」などというものは、全く歯が立たないであろう。

だが、この『ぱにぽに』が体現する不条理というか、反条理というか、分裂症というか「黄色いバカンス」なものに対して小林よしのりは1995年の時点で以下のように反応していた。(小林よしのり浅羽通明『知のハルマゲドン』徳間書店)

ギャグ漫画が行きづまってしまった状況が、今だ。吉田戦車相原コージを経て、いがらしみきおの不条理ギャグまで出てきた時に、ギャグで既成の意味を解体していく作業をやり尽くしてしまって、その下の世代に対しては一回りして、ギャグをまた一つからやり直さなければしょうがないような時代になってしまった。(略)そこで考えたのが、直球のほうにちょっと力を入れてやってみて、ギャグをその中にうまく配分していきながら、ぐいぐい、ひねくれたギャグのほうへ引っぱっていっちゃうというやり方、これが『ゴー宣』なわけね。(略)
赤塚不二夫も見ていなければ、山上たつひこも見ていない。そういうひねりにひねったギャグ漫画の世代はもういない。そういう人たちはもっと上にいってしまった。四〇代とか五〇代になってしまった
だから今の若い人は立ちは、ひねればひねるほどわからない。そのかわりに、直球を投げればわかってくれる。ストレートでガーンといった時のほうが、反応がドーンとくる。

この発言の2年後小林よしのりは『戦争論』を描く。ナショナリズムはかのように始まるのである。

「萌え」はストレートな「ナショナリズム」に打ち勝った。だが、「ナショナリズム」は「萌え」に勝つものを内包している。