枯山水

トモネン

トモネン

私には線が見える
自分と他の人を隔てる線やクラスの空気が変わる線
ここまでならケンカにならない線や
かかわりあいにならなくても済む線

これをてめえの人生の問題と考えると作者の魔術にはまる。これは作者自身のことをいっている。とはいうものの大庭賢哉の線は不安定だ。人物の線ではなくて、「自分と他の人を隔てる線やクラスの空気が変わる線」、つまりはコマの線が。あまりにも奔放に引かれたそれは、物語を食い破って、私達の前に第一に飛び込んでくる。コマの間にいきなり大きな空白が現れたこと思えば、コマ同士は融着し、重なり合い、人物達を炊きつけ、孤独にして、時には圧殺する。

ウェル・メイドな世界と人物からなる感動のなかで、堂々と『トモネン』#4のような話を描けることは作者の才気である。決してアレに忠実なわけではない。『帰り道と100円玉』や『Go Gril』に哲学的なものを読み取ることはできるだろう(やる気も頭脳もないけど。)。私は『帰り道と100円玉』が凄いと思う。だが、「昭和60年!あははあたしまだ生まれてないや」というセリフは冗長である。物語が想像していた以上の排気量の大きさにエンストを起こしたように感じた。

『Go Gril』のコマ線と地平線と海岸線が溶け出したP.76は、彼のコマ線の破壊力を物語っている。手紙を入れた瓶が戻ってくるという悲しさ。そして哲学的意味を、多くの人々が築き上げてきたマンガ表現を、手紙が入った瓶は波によって戻ってきたけれども、遠くに吹き飛ばし、作品が大庭賢哉によって描かれなければならなかったことを確認させる。

魔女と森は飽きた。いや、反論は十分できるだろう。『トモネン』#2でいきなりファンタジー世界にSF的意匠が紛れ込んできて、魔女がそれを解説しているあたりは、皮肉か「瑞々しい感性」なんだか知らないけど、ある種の雰囲気を持っている。しかしそれは小田扉によって賞賛されてしまうようなものであり、小田扉的と言われかねない。やはり彼の魅力は繁茂するコマとコマ線にある。それこそが、彼だけが掴むことのできた「魔女」であり、「森」である。