護衛艦「あたご」と聞くとCV.若本を思い浮かべる。

http://d.hatena.ne.jp/heartless00/20080216
久々にネットにつなげたらトラバを頂戴している。エヴァ以降じゃなくて、90年代以降というのが実感。『動物化』以降というかさ。押井・ジャパニメーションから深夜の萌えアニメへというかさ。語り口調が変わったというかさ。

さて、しばらくネットに繋がなかったら体の調子が良くて仕方が無い。クネクネしたいときだけ繋ぎ、疲れたら少しづつ休みを入れるというやり方が、自分には向いているような気がする。

オフ会の思い出の一つに「錦市場クイーンズブレイドの話をする」というものが挙げられる。京都の物産を眺め、雑踏に揉まれながら、終末的スン止め絵を脳に浮かべる男達。脱オタ。俺の脱オタはどこに。

中国ギョーザの一件を大笑いして眺めていたら、自分も天洋食品の製品を食っていたことが発覚した。レイシスト冥利につきるってもんだ!

萌え雑感

一昔前の萌えってのは社会学的な問題でもなくて、無論学術的なもんでもなくて、個人の暗い問題で。克服するか、折り合いをつけるしかない問題というか。人様に見せられるもんじゃないし、勿論開き直れるものでもなかった。

だからこそ、明け透けでベタなオタクが許せなかったし、サブカルはそれら暗さにたいする代替になるのでは?と思った。暗さを暗さとしてみるか(町田ひらく鎌やん)、暗さをメタ視してポップにするか(町野変丸)。暗さをモニタの前に横たわらせるか(『雫』)。

でも「個人の暗い問題」こそが社会的問題って物言いが流れ始めたり、萌えと暗い性癖とが切り離せえるって物言いは、自分にとってはある種の救いではあった。自分を動物でしかありえないとあきらめ、その体たらくをメタに眺めることは、ちょっとは気がまぎれることではあった。

ネットで萌えと吠えることは、結構楽しい。自分のように可哀想な女の子で「泣く」ことは、欺瞞に他ならないが、気がまぎれる行為ではある。おそらく自分はしばらくこれをやめるつもりはない。

しかし、さて、どこまでこの物言いは正しいのか、通用するのか、と最近では思い始めている。やはり、ハルヒは痛さを回避した、単なる暴走ではないか。本当の彼女は背を丸めて、今日も目を伏せているだけではないか。あんな女なんぞいない、あんな現実などありえない、という物言いが頭の隅で鳴る。後ろ髪を引っ張られる。

苺ましまろ』ってのも暗いマンガではあると思う。単行本未収録部分には重要なキャラクターとして「おにいさんキャラ」が出てきていたはずだ。その痕跡が見事に公式分では消去されている。幼女愛を、半端なレズという形で迂回することによって、実現している。いたはずの「おにいさんキャラ」を消毒することによって。迂回した暗さは後後に襲ってくるのではないか。

暗さぶるのは、もう勘弁してもらいたいし、そのように振舞えるのはある種の明るさなんだけど、でも明るく振舞っている自分の中で、何かが燻っていることも全く否定できない。炎上が始まったときに、すえておくだけの腹が用意できているか?と問われれば、疑わしい限りだ。

「萌え」ってのは嘘だったんじゃないか。とガキに襟首を捕まれて怒鳴られたら、自分は謝ることさえもできないと思う。いや、ガキはガキで強く生きてるかも知れんが。

私は物言いが変わっただけであると思っている。現実は昔から変わっていないと思う。無論、物言いこそがすべてだともいえる。ただ、物言いが何かで変われば、また新しい、予想もしなかった現実がやってきて、この目の前の見えるものが変わっていくだろうと思う。また、自分には自分の周辺の物言いで世界を切り取っているだけで、世界は昔から全く変わっていないといういないのではないか、という疑念が強くある。さて。どうしましょうかね。

『恋空』を立ち読みする

わしズム25号』を読んでいたら、宮台真司が『恋空』のことをを「どうしてこれで泣けるかわかりません」と言っていた。宮台先生をして、「わからない」と言わしめた『恋空』って作品は物凄いのではないか?と思い、立ち読んでみた。

DQNをベタベタに描いた作品と言おうか。DQNによる、DQNの為の小説と言うべきか。限界芸術という言葉も力負けしている小説というべきか。こんな感じの感想を持った。登場人物たちが会話するたびに、目の前にDQNが現れ、思考し、会話している情景が浮かんでくるように感じた。そういう意味でこの作品を私は「リアル」に感じた。DQNのクセにDQNの彼氏を「ヤンキー」と呼ぶバカな主人公なんてのは「リアル」だし、自転車に乗って主人公に会いに来る彼氏も「リアル」だ。沁みったれたような「リアル」だ。

読書人の間での差異化ゲームとして、DQNを演じるような人間。所詮DQNでしかありえない自分を、読書人にウケ易いように皿に盛る人間。この手の人間は今日も新人賞を賑わしているだろうが、メタDQNでもネタDQNでもないベタベタにDQNな『恋空』を前にして彼らは、自身の中途半端さや薄っぺらさを痛感するしかないのではないか。それか本物のバカを見てドン引きするか、だろう。『恋空』は、半端なDQNを演じる彼らに襟を正すように求めてくる作品ではないか、と私には思えた。

リュウという名前の主人公で芥川賞をとった村上龍は、美嘉という主人公を描いた美嘉の『恋空』をどのように読むのだろう?)

話の展開はクズとしか言いようがない。気味が悪いぐらいに平坦に描かれたレイプという事件は、ストーリをまわすためだけに存在し、この手のご都合主義を序盤に持ってくる辺りは、いきなりのネタ切れ感がして、人を脱力させる。マンガ化するならSABEや道満晴明あたりに8ページぐらいでやってもらえると、大変な傑作に仕上がるだろう。

『恋空』のように、徹底的にベタであることは、ネタ・メタに対しては異様な破壊力があるように思われた。なんせ社会学者をして「わからない」だもんな。批評家タイプの人間が『恋空』を描いたのならば、彼は一流だろうし、そうでなければ単なるバカだろう。『恋空』のベタベタさをリスペクトする意味で、私もベタベタな発言をして感想を〆たい。「バカは小説を書くな!」