『コスモナウト』『秒速5センチメートル』感想

男と女が海辺を歩いている。

女が急に泣き出す。男が「どうしたの」と言わずに、「俺が悪いんだろうなあ」「いや、奴はわけのわからない勘違いをして、勝手にないているのかも」「下手に触ると怖いから無視しよう」と思う。無視しつつも、いつ八つ当たりが飛んでくるかわかったもんじゃないと思う。いや、それは八つ当たりではなく、俺の本性に食い込んでくる話かもしれない。逃げ出したくなるが、そうもいかない。せっかく二人して歩いているんだから。

泣く女。戦々恐々な男。この二人が美しい海辺の風景でとぼとぼ歩く話。そういうのが見たい。

放っておいた新海誠秒速5センチメートル』を今更見た。

新海誠は、いろいろな(もふもふ)が透けて見える。透けてみえつつも、アニメの快楽・新海イズムでそれをすり潰している。透けて見えさせているのは、計算だとおもっている。本人は確信犯的な人だと思う。根拠はないが。

空だけがいつも美しい。

空の美しさに似合った人間だけが出てくる。やはり透けて見えてしまう。 青灰の空。青灰の国道。青灰の作業着。煤けた茶髪と猫背。これこそが美しいと俺は思う。

新海誠アニメのキャラクターのいちゃつきっぷりを脳内DQN化してみている。やつらは全て俺の脳内では偏差値の低い商業高校の男女。就職過程の工場に勤めるしかない男と、スーパーのレジ打ちになる女の、高校三年の夏の物語。イロニー的美。しかし新海のイロニーはもっと手が込んでいる。

増改築を繰り返し、新たなる意匠が日々注ぎ込まれ、統一感を喪失し、今日もまた消失されていく、多くのフェチズムと、その残骸と、それらを七夕飾りのようにクリスマスのイリミネーションのようにインストールしていく重機と、捨て看板と旗の林立する、我らの間抜けな風景に、端正なキャラクターたちが呟き、13歳の頃を思い出し、メールを送り、受け取る。

風景とキャラクター達は対立していないし、どちらが正しいか?と説いてくる者でもない。ただ、そこに陳列されている。無論それができたのは新海の才覚ともいうべきものだろう。そのために、ただ並べるために、新海は必死の形相でアニメを作っているように思われた。