「マンガ」と「政治」概論というか試論補足3
コメント欄より転用。
>もともと「大人向け漫画」として堂々と存在していた漫画読本系の作品も、今も刺身のツマ的に雑誌巻末などに載っていますが。
マンガ史の主題って話でして。
事実群を列挙しても、時系列に出来事を並べていっても、それは歴史じゃない。歴史をつづるには、ストーリーが必要である。一定の目的に向かって、進歩していくってのが、メジャーなストーリーでして。
欧米に追いつくのが、日本史の主題。
特定のユートピアを地上に実現できるまでの物語が世界史。んである有名な哲学者は、民主主義が生まれたことをもって「歴史は終わった」といいました。「んなことね。共産主義こそが歴史の終わりだ」と言った人もいます。資本主義陣営が勝ったことをもって、歴史の終わりを唱えたひともいます。
んで、マンガ史の主題は、「マンガ=子供のもの」という図式の否定。大人・青年がマンガを読むような状況は如何にして生まれたか?ってことをテーマに、過去の事実群を編集していく。または、作家はこの目的を胸に秘める。または、評論家は作品にこの主題を探しに行く。
大人が読みうるためには、マンガが大人を描けなければならない。支離滅裂なものより、構成されたストーリーと葛藤が必要。ここから、マンガ史家は、手塚や劇画や少女漫画が、この問題群をどのように処理し、深化させて行ったかを考える。作家はこの目的に向かい、作品を描いていく。ならば、彼らが、「政治」に向かうのは、趣味からの逃避ではなく、趣味の徹底によるものではないか。「政治」は、「マンガ=子供のもの」という図式の否定の徹底化から生まれる。
ついでに言っておくと、この「マンガ=子供のもの」という図式の否定。は現在達成されたともいえる。だから現在言われている「マンガの終わり」は「マンガ史の終わり」ではないかと。
んで、何が言いたいのかといえば、「歴史=物語=目的の為に編集された事実群」なんですな。つまり、物語の為にならない事実は無視される。「漫画読本系の作品」もこの一つにあげてもいいわけです。無論、排除されたといっても、その作品自体が悪いわけじゃないし、その事実がなかったわけでもない。ただ、それを歴史として語るには、別の歴史観をもってこなければならない。または、もっと直感的にわかる物言いをもってこなきゃならない。と。ややこしいですが。
>グレンラガン
一秒も見てません。らき☆すたの本編も見てません。ところで『北斗の拳』もネタの徹底化の後に生まれてきたとしか思えない。狩撫麻礼(『ハード&ルーズ』)も板垣恵介(『グラップラー刃牙』)も原哲夫も山口貴由(『蛮勇引力』)も、たなか亜希夫(『らっきーまん』)も山本直樹(エロマンガと政治の本家。『ぼくらはみんな生きている』『ビリーバーズ』『レッド』)も小池一夫の弟子。んで、小池の提唱したのが、「キャラ立ち理論」。んでこれに代わるわるものが東浩紀の「キャラ萌え理論」。
まーつまり、「ネタの徹底化=ストレート」→「オタク」と俺は思っていたわけだ。でも「オタク」自体が「ネタ」になってしまったというか。もう一度「ネタの徹底化」が来るんじゃないか。非モテなんてのは「ネタの徹底化」じゃね?無論コレは糞ツマラナイ物言いで、90年代のいましろたかしのマンガの方が遥かに面白い。じゃ、何ができる?って話だよ!長いよ!