初音ミクと不自由

音楽は、作りやすくなったし、聴きやすくなった。昔と比べて、私たちは、世界中のありとありゆる音楽にアクセスできる。違法合法のダウンロードやら、インターネットの通販やら、オークションやら。音楽評にアクセスするのも容易だ。音楽に関するありとあらゆる趣味を、私たちは眺めることが出来る。時間と空間と文脈と歴史と趣味を超えた、あらゆる音楽がテーブルの前に乗っかっている。無論、好きなだけ食えばいい。

で、このような可能性に満ち満ちた世界で、人が何をやっているのかと言えば、二コ動で音程の狂ったボーカロイドの歌ばかりをきいている。もっと歌の上手い歌手がいるのに、まだ技術的に洗練されていないプログラムを崇めている。未だ聞いていない、名曲群を無視して、二コ動内の人気新作動画のMADのMADを今日も喜んで観ている。

たぶん人が欲しているのは、自由ではなく、何らかの枠だ。枠の中で騒ぎ、中で享楽したい。不自由が欲しい。限られた世界で、限られた情報の中で、意趣比べをしたい。私たちの好きな、「小さな差異」というのは、限られた枠の中でしか生まれない。人は大きな差異を前に、呆然とするか、逃げ出すか、無視するか、しかできない。

初音ミクが提示したのは、「自由」なのだが、それによって照らし出された私たちの姿は、あきらかに不自由を求めているわけだ。逆にいえば、初音ミクは私たちの不自由を映し出してくれたともいえる。そこでなぜ、「みくみく」にされた自身の情けない姿をみて、絶句したりしないのか、物を考え始めたりしないのか、不思議といえば不思議だ。

かくして人は地方へ旅行にいっても、全国チェーンの飯屋で飯を食うのであった!