脱オタ雑感

シロクマさんのホームページ
http://www.nextftp.com/140014daiquiri/html_side/index.htm
を実は読んでいなかったので、ちょこちょこ読み始めた。

グギギギギ。オタクの抑圧された暴力の化身範馬勇次郎が、なぜ北極熊をボコりに行ったのかやっと理解しました。(違う)

読んだトコまでだが、シロクマさんはバランス感覚のある人で、親身になりながらも近親憎悪に陥らずに、具体例を示しながらも具体に傾倒せずに、脱オタについて考えながらもメタ脱オタも視野に入れている知性の塊のようであるなあ、と思った。脱オタを目指さなくとも、この感覚は、オタク道を行く上で大変に参考になるように思える。

自分にとっての「脱オタ」の効用は、芸の幅を拡げることである。小林秀雄は「文章」の人であるはずなのだが、彼は骨董という「物」に向かいボコボコにされた。たぶんこれは芸の幅を、「文章」の外へ向かうことに拡げようとした為であると思える。

オタクは「脱オタ」を目指し、ボコボコにされることで、芸の幅を拡げられないだろうか?本田透に失恋経験がなければ、彼はあれほどの芸人になれなかったはずだ。はてブ2chを見て廻るだけでは、他人の「芸」と差異化はできまい。ならば、オタクが嫌がることをやってみるのは、「芸」を向上させる上で、なかなか良い鍛錬になりはしないか?

「芸」により「芸」を磨くのは、血で血を洗うような行為だ。どこからか新しい方法を取り入れ、鬱屈とした「芸」に新風をいれなければ、「芸」にならない。行動を!決断を!

かくして人は変な映画を撮ったり、女と心中したり、NAMやつくる会を始めたり、共産主義ファシズムに手を出して戻ってこれなくなる。あれ?何でこんな結論に?しかし、まあ、それも「芸」。「そこまで『芸』が大切なのか?」と問う君は、「脱オタ」を果たしてるんで別に気にしなくていいよ。

しかし何というか、テカテカ美容院もオサレカフェも怖くて仕方がないよなあ。深夜のファミレスでDQN客と混じって一人本を読むのは全然怖くないけど。それとデモも全く怖くないorz