雨も降る

商品をレジに通し、客に値段を告げる。客が金を探っている間に、防犯用に別に分けてある商品の中身を棚から探し、中身を客に照会させる。客はこの間が居心地が悪いのか、単に俺とは別の世界の法則で生きているのか知らないが、レジ前から急に立ち去り、2メートルほど離れた鏡の前で自分の姿を見つめている。「ああ、めんどくせえ」と思う。中身を見せ、金を確認し、会計を済まさなければならないのに、客はレジから離れていく。一言かけて、客にこちらに注意を向け直さなくてはいけない。俺は小学校の教師ではない。多動性障害の人間が社会から締め出されているのに、てめえはノウノウと生きやがって!と思っていると、客は鏡の前で自分のシャツをめくった。刺青があった。恐怖を覚えると同時に、憎悪と脱力を覚えた。

バイト先でDQNに物を投げつけられたり、「殺すぞ」と言われたりして、さあ大変だ。しかしなんというか不当なクレームをつけて来る人間の9割方がDQN的な人間だったりして、ネクタイ締めたサラリーマンに不当なクレーム付けられたことは一度もない。無論、「殺すぞ」なんぞ言われたこともない。身も蓋もない世界。

クレーム対策や、プチテロリズム(駐車場はゴミ捨て場ではない。身障者用の停車場に車を止めてはいけない。駐車場のポールを破壊したり盗んではいけない。店内に座り込まない。クレーンゲームを叩かない。初対面の相手にタメ口を叩かない。不要意に他人を怖がらせない。盗品を売りに来ない。トイレはキレイに使おう。店は保育所ではない。)といった、この手の社会的コストを吊り上げたリターンは、彼らに対する社会的締め出しとして表れている。俺はまともな職についているDQNを見たことが無い。下品な言い方だが、DQNが世間一般的な意味での「美人」を連れて歩いているところを見たことが無い。

するとヤツラはさらに捻くれて、個々の場で復讐を始めやがるので、もう目も当てられない。それは自身が社会に負けたことをワザワザ顕示することなので、ヤツラは本当に恥知らずだ。オタクが、もしくは君が、DQNの事を本当に忌み嫌っているなら、社会を愛すと良いと思う。そして敵と味方の間に厖大に存在する他者を認めること。正当な範囲に置いて、親切に取り扱うこと。

弱者の光学?ルサンチマン?そうかも知れない。だが、社会によって社会から捨てられた俺とアンタが、社会を愛すなら、それは立派な「復讐」ではないか、と思う。