例のデモを少し擁護してみる(何をいまさら!)

要約:
デモの企画者が無責任で態度が曖昧なのは、このデモのコンセプトである、ルーズさを失わないためのものである。と擁護してみる。ただし、これがネタなのか(戦略的に無責任!)、ベタ(生理的に無責任!)なのか?は微妙。だって、オタク文化なんてもんは無責任な野郎ばかりが出てくるじゃねえか。


毛利嘉孝『文化=政治』って本を読んだのだけど、アキハバラ解放デモの企画関係者は、この手の本をよく読みこんでいるんじゃないかな?

旧来の左翼(サヨク)は、中央を作ってトップダウン形式の運動を行ってきた。この手の方法は、実行力こそあれど、中央部に反対する人間を排除してしまう。運動を起こした彼らは社会に排除された人間である。その彼らが、その組織の中であれど、排除のような行為をしてしまうのは、馬鹿げたことである。

この本は、世界中で興っている文化を根拠にした祝祭的な雰囲気を持つ運動(スチュアート・ホールの言葉でいうなら、新しい「新しい社会運動」)が、トップダウン型のヒエラルキーも指導者も存在しない自律した運動であることを賞賛しているように思う。おそらくデモの企画者は、オタク的意匠を使うことによって、新しい「新しい社会運動」を日本において再現したかったのではないか?

逆に言えば、このデモを新しい「新しい運動」にするためには、企画者は、この組織をトップダウンヒエラルキーにしてはいけないし、自身が指導者と振舞ってもいけない。だから、企画者は、参加者がトンチキな事を起こしても、それを強く処罰することに戸惑いがある。もし処罰し、自身が指導者として振舞うなら、そのときにこの運動は、全くの下らない旧来的運動になってしまうだろう。同時に、オタクが何かに代表されることを忌み嫌う生理を持っている人間であるとするならば、このデモの企画者が代表者として振舞っては、この運動はオタクのものでなくなってしまう、というのは言い過ぎだろうか?

ただし、この放任性と、無責任さは紙一重である。そして、私たちは自身の無責任さを人生の呪いとしている。オタク文化に無責任さを見出すことはたやすいことである。オタク=無責任を背負い込んだ人間と定義して、企画者が本当にオタクであるとするなら、敢えてやる放任性などというものはなく、実は生理的に無責任という場合を考えなくてはならない。

無責任を呪いとして背負いこみ、それでもすれすれのところで善く生きる(自律)ということは可能である。私がここで書いた「宿命を悟れ」というのはこのことである。そうやって大半のオタクは生きているだろう。だが、ここに根拠を置き、企画者が責任あるデモをするとするなら、それは旧来的デモになりかねない。かといって無責任かも知れない人間が奔放をコンセプトにデモをすれば、今回のような騒動が待っている。この辺にアキハバラ解放デモの困難さがあると思う。