知ったかぶりオタク史。「なぜオタは人間が嫌いなくせに、萌えキャラが人間を肯定すると萌えるのですか?」編

はたして、人間は本当に勝利したのだろうか?

福田和也『奇妙な廃墟』

ヨーロッパにおける「戦後」ってのは第一次大戦後のことでさ。焼け野原に立ったヨーロッパ人はこう考えた「なんでヒューマニズムを掲げる国家が、こんな大殺戮をやってしまったのだろう?こりゃ、ヒューマニズムってのは怪しいもんだぜ」と。

日本における「戦後」はその逆だ。焼け野原に立った日本人は大殺戮の原因を「ヒューマニズムの不足」に求めた。

ここには捩れがある。世界は「アンチヒューマン」に向かっているのに、日本は「ヒューマン」に向かってしまうという捩れ。日本も世界の一部であり、日本は世界と付き合わなければとても生きてはいけない。しかし私たちは世界史と同時に日本史を生きている。そこに置いて「ヒューマン」というものには、確実な何かがある。

このような「戦後」に手塚治虫はいた。手塚は「ヒューマン」と評価されるわけだが、同時に「アンチヒューマン」なものを好んで書いた。伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』に拠ってアレコレいうが、ウサミミの少年が「ぼくは人間だよねえ?」と私たちに尋ねるとき、その問いを全面的に肯定するのは難しい。手塚の目の前に広がる焼け野原は人間が作り出したものに他ならない。そしてウサミミの少年を苦しめるのも人間である。そして彼はウサミミだから素晴らしいのだ。しかし、彼は人間を肯定するし、マンガ史もキャラクターが人間となっていくことを肯定する。そして私たちは、そのことに感動さえしている。

再び伊藤の論に拠るが、『ガンスリンガーガール』においてこの問題は先鋭化している。私たちは「人間ではない」=「義体」であるから彼女たちの事が好きなのだ。そして彼女たちは人間に碌な目に合わされていない。人間によって薬漬けにされ、洗脳された少女はいう「私は人間か?」と。そして、そのシーンは馬鹿馬鹿しいことに感動的だ。このセリフは「私を人間扱いしてくれ。」と言っているようでもある。

内面を描いたとされる24年組というような作家群は、ヤオイの開祖でもある。そこにいる人物達は同性愛者というよりは、男でも女ない性=「アンチヒューマン」な何かである。マンガにおいて人間を立体的に描きつつ、同時に彼女たちは「アンチヒューマン」に依拠していた。

私たちの目の前には、「ヒューマン・アンチヒューマン」が紙一重となった世界が広がっている。人間を描くことも、萌えを描くことも同時に間違っていて、その両方は正解であったりもする。

結論は特になし。ただ、大学で「アンチヒューマン」な思想や、「人文が抑圧してきたものとしてのマンガ」を学んだ人間が、マンガの登場人物に、「ただしい人間像」を見ているのは、呑気なことであるように思える。人間自体が嫌いではなかったのか?と。