宇野常寛『ゼロ年代の想像力』雑感

平坦な戦場で
僕らが生き延びること

WILLIAM GIBSON 『THE BELOVED (VOICES FOR THREE HEADS)』

エライ人が出てきたと思う。めんどくさいことを背負いこもうとする人。2001年というゼロ年代がはじまった時に起こったテロ事件を、或るアメリカ人は「これは新しい戦争だ」と評した。取り合えず、俺らはそれに眉をしかめた。そうする理由はあったのかも知れないが、取り合えずしかめることが道徳であったように思う。

「新しい」と言う奴は胡散くさいのだ。流行ってもんは認めるが、真に新しいものはない。革命?勘弁してくれよ。革命家の葬送?それも一つの革命じゃねえか。そして「ボクら」の時代が始まるってか?ふざけるンじゃないよ。

ただ、宿命によって耐えるのは、耐えがたき世界だ。俺らは革命家たちの子孫だ。だが俺ぁ、オナニーをする自由だけが与えられている。こいつぁおかしい。かつて「乗り越えろ」と旗を掲げた英雄の姿を俺ぁどこかで覚えていて、その姿が、90年代からの「乗り越え」が不能であった世界に出現することを何処かで望んでいる。ああ、やってきたなと。野暮で胡散くさい英雄が!

その英雄を観衆の私は知ったかぶりで迎えようと思う。

宇野の文章に疑問がある。90後半いや90年代は明瞭な時代であった。オウムも酒鬼薔薇も単なる既知外だ。そんな奴は牢屋にぶち込めばいい。地震はホームセンターで買ってきた工具で防げばいい。地震の時に自衛隊の出動が送れたのは、ブサヨクのせいだ!法整備を急げってわけだ。

バブルの崩壊は第二の敗戦と呼ばれたはずだ。「近代の超克」を果たしたと錯誤した80年代のナルシズムを捨て、勝者であるアメリカを見習い、それを追い越せという意味がそこにはある。国際貢献、二大政党制、IT革命、金融改革、グローバリズム、そしてセキュリティ。アメリカ人が国旗国歌に忠誠を誓うならば、日本人もそのようにすべきだろう。ナショナリストは、『坂の上の雲』を描いた作家を、一つのテーゼとした。絶好調のアメリカを坂の上に設定すればいいわけだ。これほど明瞭なことはない。そうしてイチローは海を渡り、グローバリズムにしたがって中田は欧州に行き、アメリカで認められたアニメーションは抑圧された経済ナショナリズムを癒した。

浅羽通明は、湾岸戦争を通して、「決断」を迫られた日本の姿を感動的に描いている。ただし、オタク的に。

自分が主役であることを突然告げられた日本の当惑。
喩え話を試みる。喧嘩が弱く、見るからにしょぼくれた風体で、誰にも対等に相手にしてもらえない生徒がいた。一応ガキ大将米国君のそばにくっついていじめられっ子であることは免れたが、当然友達づきあいは苦手。休み時間に喧嘩が始まれば、みんななんで仲良くしないのさと夢想する内向的毎日。だが、内にこもってガリ勉していたら知らぬうちにクラスのトップを争うほど学力が伸びていた。今まで腕力も人望もあった米国君も、彼をライバル視し始め、見直した級友たちは、彼をクラス委員のひとりに選出した。しかし腕力もなく社交性もない彼に、喧嘩の仲裁をも含むクラスのまとめ役が務まるだろうか。
 突然クラス委員の重責を負わされた日本が、喜びよりも不安で頭がいっぱいになり、ほとんど錯乱寸前となるのも無理なかろう。外交的には米国君の意見に賛成してその場を凌いだものの、内面的には、不良の乱暴を腕力でやめさせている米国君に、自信ないけど腕力で加勢してみようとか、成績悪い子に勉強教えてあげたらみんなも見直すかなとか、いつも思っていた僕のモットー「腕力はやめて、みんな仲良くしようよ」論を今度のホームルームでクラス目標として提案しようとあとか、あーでもないこーでもないと自分の胸の裡だけで悩んでいる。

浅羽通明『思想家志願』

そのような日本はこれから、いかなる道を歩めばよいのか。浅羽はこう結ぶ。

いつしか成績がトップになり、クラス委員に選ばれた内向的なあいつを思い出していただきたい。彼はこれからどうすればいいのか。まず彼お得意のあーしたらこーしたらと頭のなかだけで夢想する癖を直そう。とにかく口に出す、やってみる。そりゃ最初は失敗ばかりで恥もかくし、信用を失うこともある。でもしょうがない。そうしたリアクションで傷を負って初めて等身大の自分の力量を客観的に知ることができるし、そうした経験の地道な蓄積なしで対人関係の技術が上達するわけもないのだから。繰り返すその前に明日は少しマシになれ!クラス委員になったからって、自分を水増しして考えてはダメだ。背伸びはすぐにバレて見苦しいし、失敗したときのダメージも大きい。でもあまり卑下しても逆効果だ。少なくとも勉強はできるようになった自分に自信を持とう。大切なのは最初の一歩への大胆な勇気と、その結果を直視した綿密で慎重な反省だ。さあ、焦らずたゆまず、がんばろう。

同上

卑小な自己を卑小な自己として見つめなおし、その上で開き直るのではなく、成長と成熟を決断すること。このような自己像とは福本伸行新井英樹が描いている主人公たちのものでもある。

かのような時代にエヴァはいたわけだ。

このエヴァをどのように解釈したらいいだろうか?前半においては「決断」のようなものを見出せるし、そのラストは「ひきこもり」を賞賛しているようにも読める。だが、エヴァの「ひきこもり」的感覚は、「決断」を果たそうとしている社会下において異様だ。そして異様である作品は、やはり魅力的である。敗戦後の「理想の時代(大澤真幸)」を無頼に生きた太宰治坂口安吾を私たちは愛している。またアンガージュが求められた時代に「内向」した作家たちの作品も素晴らしい。逆に参与しろ!と言った評論家は今日忘れ去られている。佐藤や滝沢の世代は、ネット右翼やカルスタ屋になった。佐藤たちは、このような想像力と凡庸さを回避した。

さらに知ったかぶりをする。

ゴシップなのだが、東浩紀のいうセカイ系における空白の「中間」とは、極めて下品に見ていくと、ずばり柄谷行人の「NAM」運動だろう。自分の師匠筋の失敗に対して彼は、どこかで代案を示さねばならなかったのではないか?それがセカイ系という選択ではないか?

さらにさらに知ったかぶりをする。

柄谷行人はかつて内向の世代と呼ばれていた。私は西尾幹二内向の世代と呼んでいいと思う。『国民の歴史』の有名な文章「なぜ人はポッカリ開いた心の空虚を、空虚のままにじっと耐えつづけようとしないのだろうか。」内向の世代と呼ばれる日野啓三の小説を受けてのものであったと思うし、ブログにアップされた『「小さな意見の違いは決定的違い」ということ(一)』(http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=443)この文章は、内向の世代の代表的作家と自分とが、同時代を生きたということを示しているように読める。

西尾はニーチェを以下のように描いている

歴史の認識というそのこと自体の矛盾がもたらす解決策として、あるいはバイロイト劇場建設運動といい、あるいは僧院風の新しい大学設立の運動といい、彼には未来の価値を形成するなんらの具体的行動が必要であったのだ。フランス戦線への出陣もまた自虐的課題を自分に強いた結果であったかもしれない。彼は夢をみることが必要であったのだ。否、彼は夢をみながらそれを夢だと気づいている経験、陶酔しながら同時に覚醒している経験、それをただ論文で他人事のように、学者風に論述してるだけではどうにもならないという思いに責められなかっただろうか。
 行動とは、たとえいかように些細な行動であろうとも、およそ事前には予想もしなかった一線を跳び越えることに外ならない。事前にすましておいた反省や思索は、いったん行動に踏み切ったときには役に立たなくなる。というより、人は反省したり思索したりする暇もないほど、あっという間に行動に見舞われるものだ。そしてそこには今までの反省や思索を無効にする新しい経験を持っている。

西尾幹二ニーチェ

彼の非政治的もしくはもしくは反帝国主義気質は学生時代から明らかで、突然決意して従軍した数週間を除いて、それ以前とそれ以後の、政治現実に対する彼の姿勢は、ほぼ同じ文化ペシミズムで蔽われ、非政治的理想主義で一貫していることをみれば、彼の約1カ月にわたる発作的行動はたしかに悪夢のようなもので、明確に説明はつかない。
 人よりいち早く決断し行動し、そしてたちまち幻滅したようにみえるが、しかしじつは行動する前から彼は幻滅していたのではないか。そしてそれゆえにこそ行動したかったのではないか。夢みる前に醒めていたからこそ、夢をみたかったのではないか。

同上

これは西尾自身の姿でもある。ひきこもり=内向を停止し、行動=決断をすること。かれの『つくる会』への参与の根拠はここにあると思う。

しかし、西尾の行動も柄谷の運動も失敗に終わった。内向から決断を果たそうとした彼らを折り込まないと、新しい時代はやってこないだろう。宇野の文章は以降これに答えられるであろうか?


最後にとても重要なことだが、私は宇野が「決断」的と呼ぶすべての作品を読んでいない。だめじゃん!

9.11以降において、私たちはかつて「理想の国」と仰いだアメリカを信じられずにいる。世界は不明瞭となり、セカイとなった。ナショナリズムにおける親米と反米の対立はここに起因しているだろうし、またネット右翼の存在はもはやギャグでしかない。ひきこもる世界において、決断を迫る作品は、異様だ。だから宇野の薦める作品群は読まなければならないものであろう。無論、異様なこの英雄の決断も。