宇野常寛『ゼロ年代の想像力』についての読前感想文m9(^Д^)2
うまく書けないので(というかメモなので)、もうちょい書こうと思う
宇野常寛のいう「決断」とは、西尾幹二のいう「行動」ではないかな?と思う。
http://d.hatena.ne.jp/yasudayasuhiro/20060601
この文章とシンクロしているのかな?
自分にとってのセカイ系とは、この手の決断主義が敗北した後に出て来たもんだ。80年代流のポストモダンが、90年代の大混乱の中で喪失し「こりゃ何とかせんと」と思った人間が取り合えず失敗に終わって、目の前に広がってきたもんだ。
http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2007/06/5_c5bd.html
自分にとっての脱オタはサブカルへの傾倒だったし、大月隆寛や浅羽通明や小林よしのり界隈の人々の本を読むことであった。その中にはナショナリズムも含まれていた。小沢一郎が普通の国というとき、私は普通ではない自分を、普通ではない日本と重ね合わせた(たしか浅羽通明がこんな感じの文章を書いていたと思う)。
わけの分からん本を読まなければならんと思った。んで東浩紀に出会った。オタクを許容することこそが、脱オタであると思って、むしろサブカルの停滞よりも、サブカル的に素晴らしいように思えたオタク文化にのめり込んだ。そして今ものめり込んでいる。
ただ、こういうやり方はありきたりの物になった。私は『ハルヒ』も『まなびストレート』もラノベもギャルゲも実は全然興味がない。(ただしマンガ界で狂ったようなことをやっているオタク的作家は大好きだ。エロマンガも好きだが、それは「萌え」とは無関係で、エロ業界に漂う何か文化的なものに憧れているだけである)
さて、そろそろ動き出そうかと思ったら燃料タンクには、長年堆積した「萌え」または「萌えに言及する言説」しかなかった。というのが現状ででででで