所謂マンガ表現論に対する違和感と私

訂正および、教授を乞う。

・大学でマンガが教えられるようになった背景には、カルチュラル・スタディーズの影響があるだろう。サブカルチャーの中にこそマイノリティ(とか大衆)の真実があり、それを読み取ろうというような。この手の左翼系思想運動によって与えられた地盤で「マンガのためのマンガ」を研究しようというのだから堪らない。米ソから援助を受けつつ、民族の独立を叫ぶような趣がある。

ギャグマンガ小林よしのりは所謂不条理マンガによって駆逐された作家である。『おぼっちゃまくん』は、当時からして古臭いマンガであった。その半ばマンガ業界から追い出された彼は『ゴー宣』一連の作品によって、復活する。おそらく人は、いい意味でも悪い意味でもテーマを読んだはずだ。

嫌韓流にはテーマしかない。マンガとして面白くない。拙い。しかし確実に読まれてしまった。

・マンガ原作のドラマが量産されることを、マンガ表現論論者はどのように考えるだろう。

・今日のマンガ家とマンガ読者は「絵」以外のマンガ表現に注目していない。積極的な何かを求めていない。ここにコマ割りに注目するような「マンガの為のマンガ論」はマンガ読者とマンガ家からズレることになる。ただしズレてない評論はどんなものであれダメなもんだが。

夏目房之介漱石の孫である。そして彼はマンガ家としては大成できなかった。そんな実存を持つ人間が「マンガのためのマンガ」を叫ぶのである。そこには全く陽気なものが感じられない。その彼を、両親の世代から漫画を読み続けているような「陽気な人間」が理解できるのだろうか?

・マンガ表現論のジャンルは、評論である。他分野の評論で「○○のための○○」は現在どのような位置にいるのだろうか?

・以上のような現象はマンガ表現論と時代の歩みを同じくしている。

・文系における科学的なものはどこまで科学なのだろう?一定量以上の調査をしているの?その理論に再現性はあるの?