この保守をみよ!

無念の戦後史

無念の戦後史

やっと最近西部邁という人のことがわかってきた。例えばこの文。

とくに人間・社会の現象にかんして、専門人であることに満悦しているような知識人は現象のたった一つの部分しか「分析」できません。しかし、その側面が現象の「全体」のなかでいかなる意味を持つかについての「解釈」がどうしても必要なわけです。専門人はその全体にかんする解釈をどこからもってくるのでしょうか。
あっさり言い切ると、世論において流通している固定観念に、プラトンのいった「市場のイドラ(幻影)」を、換言すれば流行の気分を、専門人は受け入れるほかないのです。

「○○の快楽」とか言って、年に○○をウン百本もこなしている人間に限って、この「快楽」を無批判に受け入れてやがる。アニメを見まくって、一つ一つのキャラやシーンにアレコレ語るくせに、最終的になにを口にするかといえば「萌え」。んで「萌えって何」ということになると「日本の伝統」とか「ポストモダン」とか言いやがる。コマや描線について緻密な議論を繰り広げているのに、流行の「萌え」やら「理論」に対して異常なまでに脇が甘いとかさ。ちょっと違うけど一人前の趣味人のくせにいきなり「嫌韓」になったり「平和」とか言ってみたり。

この文章もすごい。

つまり、相手の価値・個性については、考慮した振りくらいはするでしょうが、意に介さないという生き方です。相手のことを真剣に配慮すると、価値・個性の選択肢が多様になってしまうので、またそうなると選択基準を(当初の)自我とは別のところに求めなければならなくなるので、ひそかに自己を絶対化しようというのです。
このようにして、差異化や多様化を事々しく強調する(ポストモダニズムという名の)レラティヴィズム(相対主義)は破綻します。つまり「価値・個性はその人の立場、考え方、気分および状況に応じて様々であるし、あるべきだ」という説は、結局のところ、自己についてのアブソリューティズム(絶対主義)に転落するのです。

これは植芝理一夢使い』の「虹の卵編」を言い当てているように思える。ロリとショタとでっけえ母親が乱舞する世界を、人は理解することができる。性的マイノリティーの側に立つこともできるし、性は多様なものだと語ることもできる。実際勃起することもできるし、何よりも面白がることができる。その「虹の卵編」がたどり着いた果てが「自分しかいない」世界だ。面白がることによって、事象を自分の下に置くことができる。その結果自己は永遠に守られる。「すべてを相対に帰すことができる絶対的な私」ってわけだ。

じゃあてめえのブックマとmixiの参加コミュはどういうつもりなんだ?と言われると・・・。だからこその「保守」なのだ。この保守をみよ!