英雄の午前五時
『スターリングラード』をみたのだが、総論として駄目。汚泥と廃墟を愛でるべき映画ですね。この風景が主役になればよかった。
大衆VS大衆なのが総力戦ってやつだと思うんだけど、この映画は英雄V英雄の映画になっちまっている。まー、そうしないと物語にはしにくいわけだけど。
歩兵の視点で英雄を描こうと思ったら、狙撃兵ってのが一番いいみたいですな。この映画を観て『フルメタルジャケット』の良さがわかった。
狙撃兵=英雄と解釈すると、『フルメタルジャケット』のラストシーンは、一般兵と参加した「僕ら」が、戦場で英雄と出会って、その英雄を殺してしまうってことになる。
英雄と交わりえない「僕ら」というか。
英雄を物質で殺してしまった「僕ら」というか。
英雄の時代から見放された「僕ら」というか。
まーそんなアメちゃんの自意識がこの映画にはあった。
スターリングラードにゃこの手の自意識がない。英雄を英雄として描いちまった、と思う。身の丈をうしなった英雄譚。英雄なんぞいるわけもない時代の英雄譚。といいましょうか。
主人公の狙撃兵は「ぼくは英雄じゃない」というんだけど、英雄だって。羊飼いで狼を撃っていたんだろ。なにその少年マンガ。
スターリンとヒトラーが対決した戦場の映画でこの手の話になっちまうのは、怖いを通り越して少し可笑しい。「アメリカはん、あんたもファシズム好きやったんやねえ。」と
湾岸戦争以降のアメリカの戦争に英雄なんぞいないだろう。英雄が必要とされるのは泥臭く洗練されていない戦場だけである。たぶん。でも英雄譚は必要とされている。んで出現するのが、西部邁が「キリストみてえだ」と評したヒゲのオッサンである。オッサンどもである。
でかい話と知ったかぶり終了。『硫黄島』はみてない。