ひぐらしのなく植民地16

A:どうだった?『崇殺し編』。
B:よかったよ。沙都子萌え。やっぱり前半部分でオタ的に盛り上げておいて、後半でグロ・鬱展開に引きずり込む、と。
A:もっと味気のあることいえよ。んで「昭和50年代」はどうなった?
B:どうでもいいよ。そんな知ったかぶり。でも「昭和50年代」ってのはどこにもない時代ってのじゃないの?なんというか現代もどこにもない時代だわな。ナショナリズムとかさ。どうしてこんなに駄目になっちまったんだと。
A:はいはい。愚痴はやめてね。『崇殺し編』の話をしろよ。
B:『崇殺し編』はエヴァみたいだ。
A:「エヴァみたいだ」論?おまえはまだそんな所をうろついてんのかよ。
B:エヴァっつーか、サブカル保守が立っていた場所というか。以下ネタバレ注意なんだけど、主人公は幼女を救おうとするわけ。んで自分の無力さに気づく。幼女を救えない主人公は「無力だけど、それでも頑張る」とか「ガキだけど成長して大人になる」とかいう道を悩むんだけど、捨てちまう。んで幼女を苦しめている男を殺す=「殺人」って方向にジャンプしちまう。その結果殺人は成功したんだか失敗したんだかわからなくなってしまって、物語世界のよくできた大人は変死するわ、もう一人出てくる幼女もぐちゃぐちゃになっちまう。挙句の果てに守るべき幼女に谷底に落とされてしまう。そして最後は毒ガスで雛見沢という世界が滅んじまって、主人公一人になってしまう。規範を捨てちまった主人公は大切なものを失って、世界に一人ぼっちなってしまう。このブログで去年一回引用した江藤淳『明治の一知識人』の文章を引用すると

人間がひとたび「天」というような超越的価値から断絶されてしまえば、彼は好むと好まざるとにかかわらず世界の中心とならざるを得ない。そして、ひとたび人間が世界の中心となってしまえば、彼はもはや自己以外の何者をも愛せない。

って感じで。まさに『世界の中心で愛をさけぶ』だ。天も糞もない、エヴァやらサウンドノベルやらに乗っかかったオタクの伝統世界だ。でも規範がないことは悪いことでない。規範を伝達することは作品一般の使命ではない。規範やら「萌え」は吐き散らすもんだ。
A:ふーん。よくわからんけど『崇殺し編』は作品として完成しているってこと?
B:うん。でも作者はこのお話には「タネ」があるっていうんだから問題だ。下手したら作品を壊しかねない。それに作者はどこまで物を考えているのだろう?変に社会派ぶるとこもそうだけど、急に『崇殺し編』で沙都子の立ち絵パターンが増えたり、知恵っていうカレー好きのキャラクターの立ち絵が登場したりさ。最初にガチガチに創っておくってタイプじゃないと思うんだ。そういう人の「タネ」ってのはどんなんだろう。もう一度いっておくと、なんで知恵留美子先生の立ち絵が今更でてくんだよ!
A:結局そっちか。「沙都子の裸が出てきて良かった。ハアハア」ってオチかと思った。