空気系々雑感

空気の対義語はおそらく「言葉」だ。空気は時間、場所、人間が変わればどのようにも変わってしまう。そして「空気が読めている」範囲ならある程度の多義性を許してしまう。「言葉」は空気の逆である。時間、場所、人間が変わっても変わらない。そして多義的な解釈はゆるされない(とされている。基本的には)。

ちょっと前に書いたことを再び繰り返そう。小林よしのり大塚英志は初顔合わせの対談の中でいかのように語っている。

小林
個人の発する言葉に責任や主体性を持たせようにも、こうまでアメリカに依存している人間の言葉なんか、どこまでも弛緩していくだけだと言っているわけ。

大塚
しかし、戦後社会の言葉に可能性がなかったとは思えない。(中略)「戦後民主が言葉をダメにした」という言い方だけでは十分ではない。戦後憲法にも言葉を豊かにする可能性があったのに、日本人はそれを選択しなかったんですよ。

小林
なるほど。つまり大塚さんは、あの憲法に書かれた理念をリスクを負って本気で引き受けようというわけね。いいよ、わしはそれを選択してみても。非武装で、徹底的に言葉だけでやってみよう。ただし、それをやるには恐るべき覚悟がいるよ。

小林
(略)台湾海峡が封鎖されたらどうなるのか。あそこは日本の生命線だから、わしは中国との交渉を始めなければならないと思って、単に反中を叫ぶ保守連中とは違って、中国人とも話し合おうとしている。でもなかなか言葉が通じないんだ。

大塚
でもそういう中であえて中国の人とだって話そうとした小林さんは、言葉の力を信じているんでしょ。

小林
そりゃそうだ。

大塚と小林はマンガ屋でありながらも「言葉」の重要性について確認しあっている。「絵」でも「コマ」でも「描線」でもなく、二人は「言葉」を見つめようとしている。

そしてこの二人のチルドレンはネットにうじゃかえっている。このことから「空気系は時代の最先端だ」という風な見得は切れない。これが「空気系」のつらいところだ。ところで大塚はセカイ系に区分されている『なるたる』を「壊れている」と評している(新現実VOL.5)

なぜこんなことを書いているのかといえば以下の記事を読んだからです
http://www.zakzak.co.jp/top/2006_11/t2006110910.html
このイベント『男の墓場映画祭〜Air/シモキタで君に〜』と同時開催されたそうです。じゃあこんどは言葉攻めで(何で?)