美しい日本の私へ

2006/10/18付けのアカヒ新聞朝刊5面に八木秀次のインタビューが載っている。その中で彼は以下のように語っている。

作家の大江健三郎氏が「あいまいな日本の私」という演説をした。首相が掲げた「美しい国」の反対概念は「あいまいな国」。何を考えているか分からないような日本から、主張のはっきりした国への転換。首相の著書「美しい国」にはそういう意味が込められていた。しかし、今の首相の姿勢自体があいまいだ。

大江健三郎のいう「あいまいな日本の私」は川端康成の「美しい日本の私」への皮肉である。大江にとって「あいまいな日本(=美しい日本?)」は否定的なニュアンスとして捉えられている、と言ってしまってもいいだろう。誤読していない限り八木秀次のスタンスは、「あいまいな日本」を批判している点において、ド左翼大江健三郎と並ぶことになる。八木はバカでなければアカである。アカでなければバカであろう。

そして、『あいまいな日本の私』の対極に『美しい国へ』が置かれるとするならば、川端流の『美しい日本の私』の立ち位置はどこ辺にあるのだろう?

「美」は『美しい国へ』に包囲されることによって逆に生き残るだろう。でも川端康成の「美」はとても変態ちっくなものでして。「少女と添い寝してえ」「少女につきまといたい」みたいな。

田中康夫がこんなことを言っている↓
http://eritokyo.jp/independent/tanakayasuo-col2006.html