いなたい空気に犯られては思い出す鼻眼鏡(いただきま〜す)

平日の図書館で『SAPIO』を立ち読みする。自分のならず者っぷりも板についてきたなあ、と思っていたら『ゴーマニズム宣言』に小林が大塚英志と対談をすると書かれていたので『わしズムvol.19』を買って読んだ。

小林は『わしズムvol.19』でいっている

だが『戦争論』は小林よしのり個人の存在証明の書である。極めて私小説に近い。

この言い方は正しいと思えない。一介のマンガ読みから言わせてもらえば、『戦争論』に私小説的魅力はない。私小説的な魅力において小林よしのりというマンガ家は、『失踪日記』の吾妻ひでおや『刑務所の中』の花輪和一桜玉吉にとても敵わない。むしろ『戦争論』はエッセイマンガの隆盛に対抗すべきものとして読みうるものである。

かつてのビックネームである大島弓子吾妻ひでおは90年代から今日において、強度ある私小説的マンガを描きえた。作品の是非は横に置いておくとして、人によってはこれを一種の堕落とも読んでいることだろう。そしてまた今日、自身をキャラクター化して日常を軽く淡く描くエッセイマンガは量産されている。このようなマンガ界において『戦争論』は存在する。しかしまた『戦争論』も一種のエッセイマンガであるのだが。

片一方において『戦争論』をエッセイマンガとして読めない層が存在する。この野暮な人々にむかって小林は「これは私小説だ」と叫ばなければならない。だが『戦争論』に私小説的魅力はない。

小林よしのりは戦線を拡げすぎた。しかし私は小林の奮闘を記憶しておこう、と思う。マンガは描線とコマだけでできているという訳ではない。作者と物語と社会と、何よりもそれを渇望する人々によって成り立ってもいる。



というような視点から大塚英志小林よしのりとの対談を読んでいくとなかなか面白い。

大塚は小林を批判している。そのこともあって小林によれば大塚は対談の当初「構えておられるようで緊張感があった」という。また小林も大塚のことを護憲派で、物語否定とか天皇制否定などといっている怪しからぬ人物、オタクを擁護している人物、わしにはあまりいい印象ではなかった」といっている。

しかし大塚英志にしては珍しく(?)対談は陰惨なものにならなかった。対談の終わりで大塚は「実際、今日は、根源的な議論をすることができましたから、来て良かったですよ。」といっている。一方の小林も「どうもありがとう。わしも今日は面白かった」と締めくくっている。

私は以前から小林と大塚の間には一種の共通点があるのではないか、と思っていた。例えば90年代初頭に起こった有害コミック規制の渦中で、小林は「セックス・マンガは山本直樹岡崎京子はメジャーでバコバコ描いてよし!あとはマイナーで存分に描け!」というコメントをしている(『ゴーマニズム宣言』1巻の第四章)。大塚は『戦後まんがの表現空間』の「性的コミックという枠組」で山本直樹は、作家も作品も見るべきもの、語るべきものを何一つ残さなかったと断言して差しつかえないロリコンコミック以降の性的コミックの領域において、比較的というか唯一、例外的に作家としての資質に恵まれた作家である。」といっている。だからどうした、といわれればそのとおりだが、この二人は政治的には対立して入るが、その趣味的領域においてはほぼ同じような場所に立っているとはいえないか。

かのような二人は対談において次のように出会う。

小林
個人の発する言葉に責任や主体性を持たせようにも、こうまでアメリカに依存している人間の言葉なんか、どこまでも弛緩していくだけだと言っているわけ。

大塚
しかし、戦後社会の言葉に可能性がなかったとは思えない。(中略)「戦後民主が言葉をダメにした」という言い方だけでは十分ではない。戦後憲法にも言葉を豊かにする可能性があったのに、日本人はそれを選択しなかったんですよ。

小林
なるほど。つまり大塚さんは、あの憲法に書かれた理念をリスクを負って本気で引き受けようというわけね。いいよ、わしはそれを選択してみても。非武装で、徹底的に言葉だけでやってみよう。ただし、それをやるには恐るべき覚悟がいるよ。

小林
(略)台湾海峡が封鎖されたらどうなるのか。あそこは日本の生命線だから、わしは中国との交渉を始めなければならないと思って、単に反中を叫ぶ保守連中とは違って、中国人とも話し合おうとしている。でもなかなか言葉が通じないんだ。

大塚
でもそういう中であえて中国の人とだって話そうとした小林さんは、言葉の力を信じているんでしょ。

小林
そりゃそうだ。

大塚と小林が、いうならば二人のマンガ屋が、言葉の重要さについて確認しあっている姿は、なかなかに興味深い。マンガ表現論は現在において流行っている。だが、それは彼らの心中にある現実というものをいかに描きえるだろう?現代においてマンガの読み方は問題にされない。老若男女マンガを読む。マンガが読めなければ、ニュースにさえなる。コマの実験は無くなった。描線は個人の好みに任されている。このような場所にマンガ屋は立っている。「言葉」はマンガ屋が取りえた、一つの選択であると思う。そしてこの勢力は決して無視はできないと思う。



と、いろいろ書いたが『わしズムvol.19』で一番の読みどころはマンガである。『新現実』をやめた大塚英志も歯軋りしていることだろう。

小林よしのりの「『戦争論』以降の愛国心について」は、子供が目の前で溺れていたら、泳げない「わし」はどうしよう、という不条理な不安に小林が怯えている箇所が面白かった。変に成熟してしまった島本和彦/炎尾燃よりも、小林のヒロイズムと情けない現状の間で宙ぶらりんになっている感覚は、生き生きとしている。「ザ・樹海」も面白かった。散々悩んだあげく、死にむかってポジティブに前進していくラストシーンはイデオロギーに疲れた作者を癒したことだろう。

業田良家「シャルルの男」も良かった。そうだよな、ラジオは布団の中に持ち込めるんだよな。PCは持ち込めないけど。主人公の男は捕まって殺されるのだけど。

なんといってもこうの史代「古い女」が圧巻だった。自分の読んだ、こうの作品の中では一番良かった。こうの史代の絵は「萌え」だ。(ちなみに私のこうの史代観は以下http://d.hatena.ne.jp/yasudayasuhiro/20050603)この「萌え」でもって「古い女」を描く。「萌え」ずにはいられないってわけだ。その古い女はラストで刺す。「そうこの人ならば大丈夫 いざという日にニッコリ笑って送り出せる 戦争で死んでも万歳と喜んで差し上げられます」と。オタク的な魅力に溢れた「古い女」とそれがいなければやっていけない男どもが戦争を起こすのだ、と読めないわけでもない。しかし作中の「古い女」が望んでいるのは、戦争によってこの世界が破壊されることではないだろうか。戦争によって良い社会がやってくることを女は欲していない。戦争によって社会が転覆されることを「古い女」は微笑んで待っている。この感触はあびゅうきょの「影男シリーズ」にも通ずるものがある。以上のようなマンガがチラシの裏に描かれたように、描かれている。作者が狙っているのは混乱と「萌え」である。


これらを中ほどに掲載されたセカイ系ちっくな戦争画『神兵パレンバンに降下す』とともに楽しみたい。マンガも、現実も、セカイもここにある。さてさて日本と国家は?