ゲーテッドコミュニティって儲かると思うんですが。

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水増しー。


浅野いにおひかりのまち』を読む。おそらく作者自身が「ひかりのまち」に生まれた人間なのだろう。昔は森や藪であった名も無き高台に配置された新興住宅街とマンション郡。ベビーブーマーの住居として、またバブル期の土地開発によってつくられた、伝統も風景もないデオドラントされた奇妙な名前をした「まち」。そこに生まれざるをえなかった子供たちは、一体何を見つづけてきたのだろうか。この問いに対する答えの一つとして『ひかりのまち』というマンガはある。

新興住宅街とマンション郡を舞台にしたマンガは幾らでもあるし、それについて書かれた文章も探せば探しただけみつかるだろう。無論、新興住宅街とマンション郡は、現代を象徴する狂気的で珍奇なものとして捉えられ、描かれる。しかし、それは先人たちの目から見た場合の話である。奇妙な名前をした「まち」に居を構えざるを得ない自身の人生と実存。宅地開発によって子供のころ慣れ親しんだ自然とともにノスタルジーが破壊されていくという感覚。先人たちには別の帰るべき場所がある。彼らはこの「ひかりのまち」を絶望しながらも、鳥のように見ることができる(大友克洋童夢』のマンション郡はカメラでは撮影不可能な角度から描かれているカットもあるという。まさに鳥の目で大友はマンション郡を描いた。)

浅野いにおの世代には「ひかりのまち」を虫の目で描く権利がある。鳥の目ではなく、虫の目。伝統と歴史と遠近感の喪失した「まち」を這うように生きてきた彼らには、先人たちがかつてはそうであったように、特権が付与されている。しかし作者は、その権利を放棄し、または気付かずに、鳥のように描いてしまった。

彼の描くエピソードと人物には体重がない。リアルさがない。「このあたりがリアルであろう」と作者は考えたのだろうが、フリーター、女子高生、少年犯罪、誘拐事件、ビジョンを見る幼児、等というガジェット郡は鳥のものであって、虫のものではない。カップルたちの紋切り型のやりとりは、「青臭い」というよりは未だ目の開かない赤ん坊がみたもののようにうつる。あえて消されたノイズを作者は自らの「目」によるものだと勘違いしている。では、ノイズがあればよいかというとそういうわけでもない。鳥もアホではない。このガジェット郡を見て私は新井英樹を少し思い浮かべた。新井英樹は判りやすいものを並べて、一つづつ石川凛のように馬鹿にしていった。作者はかのような自在さと大胆さを持っているのだろうか。

☆歌詞に意味なんて
なーい。

まぁ意味なんて
なーい。

でもきっと
意味ないものなんてない。

じゃあ歌おう。
なるべく楽しい歌を♪

(☆ずっとくり返し)

知っているかい?
ここだけの話、
世界はいつか
終わるんだって。

当然さ。
なんだって始まった
瞬間から終わりに向かって
突き進むしか
ないんだから。

同じ過ちを
繰り返し、
ぐるぐる
ぐるぐる
輪をかいて。

その螺旋の先に
何があるのか
知らないけども。

せめてこんな朝は
今日一日の幸せを
祈ろうじゃないか。

これが作者自身の『ひかりのまち』に対する批評であり、鳥に対する呪詛であるならば、この『ひかりのまち』は成功している。しかしその成功の後には何が残るのであろうか。「ひかりのまち」は円環を描けるほどの十全な世界ではない。「ひかりのまち」はわたしたちが帰るべき山林を削ってできたものだから。世界には終末も目的もないが、わたしたちは彷徨い歩くことを止めることはないだろう。いくつもの「ひかりのまち」を生み出しながらも。