くにがつくったのか!?

スケッチブック 2 (BLADE COMICS)

スケッチブック 2 (BLADE COMICS)

一人のギャグマンガ家によって「マンガの終わり」は唱えられた。不条理マンガブームによって隅に追いやられたギャグマンガ家がいる。彼が描いた『戦争論』はかわぐちかいじ大友克洋の描いた「戦争」よりも、多くの話題を、もちろん罵声も含めてだが、集めることになった。

「マンガ」は終わったのかもしれない。大友・ニューウェーブ以降の「マンガ」界に大きな見取り図を示すことは難しい。少なくとも私はそのような図を知らない。

小林よしのり大友克洋はほぼ同年の生まれである。しかし彼ら二人を共通のグループとして見ることはできない。登場の雑誌や衝撃や文脈はもちろん違ったものであるだろう。しかしそのようなことより、ストーリーマンガ家とギャグマンガ家というジャンルの違いこそが彼ら二人を全く隔絶させたものとしているのではないか。

ギャグマンガは元気だ。掲載されるページ数が減少しているとしても。『伝染るんです。』の登場は私にとって衝撃であった。思考の方法を根本から変えられたような気がした。同じことを若い人たちは『あずまんが大王』において見ているような気がする。大友克洋『AKIRA』以降に作者名を挙げることは、何となく恥ずかしい。だが、吉田戦車唐沢なをきしりあがり寿以降にあずまきよひこと叫んでみると、案外いいレスポンスが得られると思う。

大雑把にいうと『スケッチブック』は花鳥風月である。キャラクターたちは期待を裏切るかのように隠遁する。日々の生活の中に潜む、生活者にはわからない叙情・不条理・世界観たちを全て受け流す。俳句や短歌から自意識を、エッセイマンガの自己顕示をすべてぶっこ抜くと、このような四コママンガの世界が広がる。

『スケッチブック』の草や木や動物たちの感触は、小田扉あずまきよひこ達のものでもある。小田扉のマンガの隅に出てくる「いい顔」の犬や、『よつばと!』一巻表紙でよつばが持つ根のついたヒマワリが示しているものたちが『スケッチブック』においては中核をなしていく。少女や少年達よりも、「物語」どころか「話」にさえならない感覚や空気によって作品は成立する。そこには動物たちが徘徊し、草や木が萌える。「空気」?「動物」?「萌え」?

おお!オチがつきそうだがもう少し何か言う。

一巻で2人の人物が「りんご」→「ごますり」→「りんご」→「ごますり」という不毛なシリトリをする。何をしているのかと訊ねられると「メビウスゲーム」首を傾げながら返事をする。「メビウスゲーム!」ではなく「メビウスゲーム?」である。また本巻では主人公が道端に咲く花を見つける。「名もない花を発見」「なかなかいいものだ」と思った次のコマで別の人物に「あっ!オカグルマが咲いてるね」と言われ、名前が判明する。そういわれた主人公は悲しむわけでもなく、嬉しいと思うわけでもなく、曖昧な表情をする。

このようなグニャグニャしたものが、形を捉えられた瞬間に、その姿を暗ませるという展開は、ストーリーマンガ家たちにはない。小林よしのりが自爆することなく、永遠に泳ぎ続けられる事と、これは似ている。ギャグマンガは決して終わらない。彼らの行進が暴走にみえたとしたら、それは単に私達が同じところをグルグル(メビウスゲーム!)しているだけの話である。