ダイバダダッタ情熱

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放浪息子 (3) (BEAM COMIX)

放浪息子 (3) (BEAM COMIX)

マンガの常套手段を踏みながら、それを嘲笑するわけでもなく、脱臼させるわけでもなく、溶解させ、なんとなく壊して行く作家だと思う。志村貴子は。
敷居の住人』のありとあらゆる仕掛けが空中分解して行くさまや、『ラヴ・バズ』の立志する主人公が、結局家族や社会にもピリオド打つことができずに寝転がっている光景はあまり目に掛けることがない。
本作もそうだ。ジェンダーフリーはマンガ内において極めてノーマルだ。高説を伺わなくともブック・オフの100円マンガ文庫棚をひっぱってきたらわかる。「ジェンダーフリー」をテーマに持ってきた作者はその普遍的なものに足を突っ込むだけの実力を有している。
早熟な少年と少女たちの優越感と、裏返しの劣等感。そして「男子」どもに対する嫌悪感。それらを描くことのできる描写力。社会へと適応し、成熟していく自分たちと、彼らの前に現れるアブノーマルな人々と男女装という構図。二鳥が精通する次の話に、カルピスを持ってくる辺りは、大笑いしたあとで、作者のトリッキーなストーリーセンスに驚かさされることになる。
しかし、極めて手触りのいい作品は、作者の腕のまえに変貌する。夢精→カルピスというコンボの結末は、作者自身が後書きで明かしているように、物語の展開を狂わせてしまうようなミスへと繋がってしまう。
この巻の見せ場の一つである、ヒロインの葛藤の末の決意のセリフ「私は着たい服を 着るんだ」は、石原行政に苦渋を舐めさせられている人間に引用されてしまいそうな「正しさ」を持ったものだ。しかしそれにしても、そのセリフの直後にやってくる生理によって挫かれる。
とはいうもの物語は進むし、表現や絵は洗練されていくし、次々と新しいガジェットは登場する。いや、「できる。」というべきだろうか。次々と部品を撒き散らしながらも、船はますます加速する。

ガキに「ジェンダーフリー」を説く者も、「二鳥タンハアハア」とかいった見解の者も、いい意味で壊れている。だが、それは作者の前では大したものではない。志村貴子は「正しさ」や「萌え」に回収されないぶっ壊れたものを、強さを、今掴んでいる。