宇野常寛『ゼロ年代の想像力』についての読前感想文m9(^Д^)

未読でこんな事をいうのは大間違いだが、宇野の例の評論は「決断主義」なのだそうだ。

http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2007/06/5_c5bd.html
http://d.hatena.ne.jp/inumash/20070604/p1
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/inumash/20070604/p1
id:isnotitさんのコメントが素晴らしい。

エヴァンゲリオンの裏側にゃ、社会不安があった。阪神大震災オウム事件やら金融危機は「安全神話」や「ジャパン・アズ・ナンバーワン」的ナルシズムをぶち壊した。逆にアメリカは好況に沸いた。言うまでもなく95年とはwindows95発表の年でもある。バブル的ナルシズムを追い出された日本は決断を迫られていた。自分が知る範囲では、橋本政権下の金融ビッグバンなんてものは、その決断の一つである。そして「つくる会」という決断も95年は96年に始まっていたりする。

今日的ナショナリズムは「ジャパン・アズ・ナンバーワン」的ナルシズムと無縁である。ネット右翼は、世界に冠たるトヨタソニーを憎んでさえいる。八木秀次ナショナリズムは、イギリスやアメリカが保守化して成功をおさめているのだから、日本も保守化せよ。というものだ。そこには、ナルシズムを打開するために、ナショナリズムを導入せよという側面もあるように思える。

このような条件下において碇シンジというキャラクターは、何かしろの決断を迫られている人物のように思えた。それらは劇場版で否定されるわけだが、ロボットの前で逡巡し、アスカに罵られ、決断を目の前に置いた本作に、「決断のはじまり」みたいなものはあった。私には、碇シンジは伊藤カイジの同時代人であるように思える。私たちは「テキストサイト」というものがあった時代に、チャットや日記で彼らの真似をしたように思える。そして『雫』にも『少女革命ウテナ』にも「決断」はあった。岡崎京子は『リバーズ・エッジ』で「平坦な戦場でぼくらが生き延びること」というワンフレーズを引用した。

かのような状況下で、これらを半ば侮蔑的(少なくとも私にはそう聞こえた。)に「動物化」と呼んだのが東浩紀である(ただし岡崎は別)。そしてこれは破壊的だった。

「決断」は「動物化」と背中を合わせているわけである。自分にとっての「セカイ系」とは「決断」が失敗に終わったところに始まるものである。何を今更。と思うのだが、読まずにこんな事を言ってはいけません。

えー、このような偏見を抱きつつ、読んでみようと思います。

宇野常寛『ゼロ年代の想像力』についての読前感想文m9(^Д^)2

うまく書けないので(というかメモなので)、もうちょい書こうと思う

宇野常寛のいう「決断」とは、西尾幹二のいう「行動」ではないかな?と思う。
http://d.hatena.ne.jp/yasudayasuhiro/20060601
この文章とシンクロしているのかな?

自分にとってのセカイ系とは、この手の決断主義が敗北した後に出て来たもんだ。80年代流のポストモダンが、90年代の大混乱の中で喪失し「こりゃ何とかせんと」と思った人間が取り合えず失敗に終わって、目の前に広がってきたもんだ。

http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2007/06/5_c5bd.html
自分にとっての脱オタサブカルへの傾倒だったし、大月隆寛浅羽通明小林よしのり界隈の人々の本を読むことであった。その中にはナショナリズムも含まれていた。小沢一郎普通の国というとき、私は普通ではない自分を、普通ではない日本と重ね合わせた(たしか浅羽通明がこんな感じの文章を書いていたと思う)。

わけの分からん本を読まなければならんと思った。んで東浩紀に出会った。オタクを許容することこそが、脱オタであると思って、むしろサブカルの停滞よりも、サブカル的に素晴らしいように思えたオタク文化にのめり込んだ。そして今ものめり込んでいる。

ただ、こういうやり方はありきたりの物になった。私は『ハルヒ』も『まなびストレート』もラノベもギャルゲも実は全然興味がない。(ただしマンガ界で狂ったようなことをやっているオタク的作家は大好きだ。エロマンガも好きだが、それは「萌え」とは無関係で、エロ業界に漂う何か文化的なものに憧れているだけである)

さて、そろそろ動き出そうかと思ったら燃料タンクには、長年堆積した「萌え」または「萌えに言及する言説」しかなかった。というのが現状ででででで