イロニー雑感

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ここでid:sakstyleさんがアイロニーという言葉を使っておられる。

アイロニー(=イロニー)といえば、保田與重郎だ。最近になってやっと『日本の橋』を読んだ。正直わからんかった。でも、博学的知識を並列に散らばし、そこから物事を軽やかにこじつけて行き、ここぞという場面で論理的に飛躍してみせる文章は、まるで今日のオタク論のようだ。とか思った。

戦後保田は戦時協力のため公職追放を食らう。そして丸山真男の弟子筋の橋川文三に批判されたりもする。アイロニーの終わった後に、「戦後民主主義」がはじまるってわけだ。アイロニーを徹底化した結果が「戦後民主主義」かどうかは知らない。だけど、アイロニーの後に「マジ」で「ストレート」な民主主義をやってやろう!って人は確実にいた、と思う。

戦後民主主義」を無視することは出来ないと思う。取りあえずは、そこで自分は育ってきたわけだから。しかし、アイロニーが大好きな自分たちに「ポストアイロニー」を考えた「戦後民主主義」を本気で崇めることができるか?といえばかなり疑問だ。

もし、「戦後民主主義」的なものを本気で愛そうとするなら、アイロニーアイロニー化してしか愛せないのではないか?ここで大塚英志が一昔前に言った「戦後民主主義」みたいなものを想いうかべてもいいかも知れない。ついでに80年代のポストモダニストたちが90年代以降に政治参加をして行ったことを想いうかべてもいいかも知れない。彼らは結局のところ、アイロニーアイロニー化したかったのではないか。とすれば、私見に拠るが、彼らの姿は小林よしのりと酷似していないか?

西尾幹二の文章を長く引用する。

われわれを直接的に拘束し、抑圧するものは今は何もない。その揚句、個人の生き方は確かになるどころか、ますます頼りなく、偶然に支配されるような傾向が増えていく一方である。つまりすべては開かれ、どこといって定点はない。言い換えれば、個人は空虚へ向かっていわば開かれた、なにもない空間をただ漂って生きているような無正確の傾向をますます深めている。

これからのわれわれの未来には、輝かしきことは何も起こるまい。共産主義体制と張り合っていた時代をなつかしく思い出すときがくるかもしれない。

私たちは否定すべきいかなる対象をさえもはや持たない。眼の前では、静かな機械の音だけがカタカタと響いてくるとりとめなく明るい空間が、人工灯のもとにひろがっている。世界は暗闇に沈んでいるのではなく、隅々まで白光灯に照らし出されている。見渡す限り明るくなりつつあるのに、それなのに、私たちの生はあてどなく、人格的な意志を欠いている。確かなものを求めるためには、それも当てにはならないのだが、内面の暗部へとでも降りて行く外に仕方がない。

西尾幹二『自由の悲劇』

宇野常寛ならば、「ひきこもり系」とでも呼びそうな文章である。それが、悪名高き西尾幹二によって描かれたことを、私は記憶しておこうと思う。この虚無と皮肉の後に、それをアイロニー化して生まれ出てくるのが、「つくる会」であり、「決断主義」であり、ナショナリズムではないか。