『赤線街路』と終戦

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おお。

「赤線(の廃止)」(=昭和33年)というたら、「ああ、あれか」的な共感や、「現代は軽薄でファンタジー。赤線こそがリアル」とか「赤線は暗い。現代こそがポップ」な物言いがあるように思うのだが、その手の物言いをすっ飛ばしているように思う。

『赤線街路』と大正ロマン的ガジェットと異世界とは等価である。「リアル」とか「歴史」を喚起させないポップなものになっているように思う。そこに現れてくるガジェットは、「現代」や「現実」と比較されるべきものではなく、それ自体がそれ自体として独立していて、美しい。

本作が成功したならば、昭和33年という時代は、もはや神代の世界だ。剣と魔法と神話と少女達の楽園と同列の世界だ。

昭和33年は「オタク○世代」を自称する人間ほぼ全員が生まれていない年代で、「自分の生まれていない時代=異世界」と捉えてしまっているなら、その歴史感覚を砂を噛むような思いで噛み締めなければならない。

「8ビット」的音楽も、ゲームも私にとっては「懐かしい」ものに他ならないわけだが、「8ビット」=「懐かしい」というような直結はアホ丸出しである。しかしどうしようもなく、「8ビット」は「懐かしい」。

やってもいない、出来上がってもいないゲームについてアレコレいうのは間違っているけど。

さて、8月15日は終戦記念日であった。映画が公開されたこともあって、こうの史代『夕凪の街桜の国』が再び読まれはじめている。本作は反戦マンガではない。かといって「人間」や「歴史」を描いたものではない。本作は萌えマンガだ。こうの史代の描く肢体は、ほしのふうたの肢体に通じるものがある。主人公が死ぬというようなラストはセカイ系的発想と通じる。そして風景の中のガジェットたちが生きている。未舗装の道路、着物を着た女たち、銭湯、パーラーのある町並み。女たちが自分たちの服を、自分でつくることが趣味以上のものであった世界。もはや異世界である。これは現実に対立するものではなく、単に美しい。終戦から13年経った『赤線街路』の昭和33年が美しいように。

私は、そのような場所から「戦争」を、「歴史」を眺めることしかできない。「反戦」や「平和」は、この欺瞞の視点を隠し癒すものか、圧殺するものである。この自身の欺瞞の視点を見つめなければ、私は「歴史」と対峙できないと思っている。